郷土をさぐる会トップページ        かみふ物語目次ページ

シベリヤ物語

北栄区12 高橋 七郎(五十九歳)

昭和二十年八月十五日終戦……敗戦の日である。
当時私は、鉄道第二十連隊の兵隊として満州ハルビンに駐屯していた。
敗戦の色濃い四月に編成された鉄道関係者ばかりを集めてできたばかりの鉄道隊の中で、中堅伍長の五年兵として兵隊の神様的存在の折も折、八月九日早暁のハルビン爆撃に始まったソ連の宣戦、そして全満ソ国境の四方から怒涛の如くなだれ込んでくるソ連兵の急進と混乱した情報のもとに、鉄道隊は、奉天〜吉林間の鉄道警備が下令され、ごったがえす中で取るものも取りあえず一ヵ列車を仕立ててハルビンを発ち、戦況も列車内として、わからないまま吉林に到着した。

その途端に終戦の報を知る。駅構内でウロウロ一週間経ち、そして武装解除と共に敦化までの二〇〇粁近い強行軍の末敦化飛行場に集結したものである。
ソ連軍監視下にあって飛行場にすわったまま、これからどうなるのか未知の我身を案じてる折、次から次と集まって来る開拓団、民間人の姿を見るに、頭は丸坊主の女性、こじきみたいな服装の痛々しさを横目で見ながら、身は捕虜とてなすすべも、言葉一つもかけられない不甲斐なさ。
昨日に変わる敗戦の悲劇、まして日本人のみじめさはたとえようもなかった。

間もなく郊外の小高い丘の山腹に移動させられ、一カ月余りの自活、天幕生活が始まり、秋の収穫が手当り次第に持ち込まれたものだ。いも、南瓜、とうきび等、そして時たま配給される黒パンに始めは腐っているとしか思えない味もなれて、早く日本に還りたいナーの一念にかられていた訳である。
深まりつつある秋の十月始め、待望の汽車に乗り込む。「ヤポンスケー(日本人)東京ダモイ!!」顔を見るとソ連兵やロシヤ人の声に、本気で日本に還るものと解釈して新京〜ハルピン〜興安嶺を越えて暫く振りで見る懐しい四年間を過ごした国境の町、満州里の兵舎を扉のすきまからのぞいたのもつかの間、汽車はなおも北へ北へと日夜を問わず走りに走ったのである。

「チタ」を過ぎシベリヤ鉄道を「東に走って呉れ」と念じたのもつかの間、相変らず北へ北へと……。そしてバイカル湖を丸一日見ながら走ってノーシビルスク〜更にこんどは南下してバルナオ〜ルフッオカと一カ月十日かかっての貨車積めの旅。日一日と捕虜の身が泌みつき始めた。挙句の果てがシベリヤの町に降ろされる。
そこで独逸軍の捕虜と顔を合せ、お互いに励ましあったりしていたもののソ連兵にその場で身休検査を受け、体格・骨ぐみによる品さだめ、A級重労働可能組に入れられて、吹雪が身をさす真夜中に又、貨車に積み込まれてブラビヤンカという無人駅に到着した。
夕暮れの雪道をあえぎながら二十粁の行軍。つかれ切って倒れそうになって、ようやく暗い闇に二つ、三つ灯が見えはじめた。内地の山小屋を思い出す。附近は赤松と落葉樹の大森林地帯で、可成り山の中に入ったのであろう。昔のシベリヤ流しの囚人を集めた収容所が黒い影で待っていた。

その後に続く食うや食わずで栄養失調の暮らしから、何度も死にかけては這い上り、生き戻り、そして、またくるであろう本当の春を待ちこがれつつ一年六カ月間のシベリヤ生活であった。
青春二十八歳の人生生活の内で、最も永く、長いそして暗く、せつないまでの才月であり、九死に一生を得て戻り得た身には人生の半分以上も凍るシベリヤで暮らした感に襲われる。
日本人として生きて還ることだけが望みとして……それだけに当時の我身がいとおしく、その想い出も苦しさが激しかった程つい昨日のことの様に強い印象で残っている一年半のシベリヤ物語でもある。
1 プラビリヤンカ収容所
(浦島太郎の節)
昔々つわものが‥‥東京ダモイに偽されてェー、シベリヤくんだり来て見ればァー、口にも言えないことばかり〜〜

ブラビリヤンカ収容所の夜は更けて……トウキビ粉の「水がゆ」が朝夕飯盒の半分に、腹は空き寝ても起きても腹がひもじさ一杯、還られるのかな?死ぬのかな?加えてシラミと南京虫に悩まされて今夜も寝むれぬ着たきり雀。外は吹雪でペチカもチョロチョロ。今日も暮れゆく異国の丘に…このまま死んだらみじめ過ぎる。そして餓鬼道に陥いって行くのである。
2 抑留中の身廻り品
これが個人の全財産、寒さ酷しく、上べは防寒服に身をつつめど、中味は囚人の身で、心はふぬけ、衣服はもぬけ、紙がないので、外套の内味の和紙から綿まで次々抜け出し、用便後の仕末に使用、外側だけの防寒服。肩にタポール(斧)とピラー(鋸)を引かけ飯盒を腰につるし、何時の日か飯盒に一杯の食料がつまる夢を追って作業に出る。身ぐるみ剥ぎとられた型で身は軽い筈なのに心は重い。喋ると腹が空くので殆んど無口になってしまう。腰の飯盒がカラカラと悲鳴を挙げている。そして雪道の作業現場に出掛けるのである。
3 作業所
近くて二粁、遠くは四粁位離れた現場まで、歩哨につれられて二十名又は五十名単位で、朝明るくなると出かける。屠殺場に引かれる羊の群れより元気がない。「ポッタラ」「ヨッタラ」「ハラへッタラ……」歩哨のソライノフが「タカシー(高橋!)ヤポンスケ(日本人)ヒートリー(ずるい)ドバイ(早く)ドバイ(早く)ブイステリー(いそいでこい)。六感通訳兼組頭の自分「オーイ〜マンマンデー(漫々的)ゆっくり、スカレー(はやく)ビゴンビステレエ(走って来い…)と皆を呼ぶ。一同、遥かにおくれながら「オーゥイマイクヨー……」相変らずモッタラモッタラ、少しでもエネルギーの消耗を防ぐのに、こずかれても、打たれても、只黙々、黙々、のみ。満語とロシヤ語をまぜて適当に合図するのだが、段々満語の意味が歩哨にもわかり、こずかれ始めた。
4 伐採作業
(浦島節)
〜スターリンの給養にー伐採、石割り、鉄はこびー、
只働きに働いてー、郷里(くに)に帰った夢ばかりー〜

見事にのびた赤松落葉、径五十cm用から一m以上もある木にいどむ、地上十cmから切らなきゃトラクターの障害になるとかで、先づは雪除きを脚ではねる。脚がカクンカクンだ。おもむろに外套を尻に、坐り込んで鋸を挽くのでなくお互いに体を後に倒す、この動作の繰返しで大木も仕方なく倒れてしまう寸法だ。ノルマ(作業割当量)、ノルマに追われて今日も暮れゆく。夕方近く、陽影が長くのびた頃一六時近くに昼のパンとスープが馬橇につまれて来るのだ。
5 伐採の昼食
「ヤポンスキー(日本人)サムライ、ジャンケンポイ」ロスキー(ロシヤ人)達が一番始めに覚えた日本語である。ジャンケンポン、アイコデショイ!アッチャムイテホイ!なんちゃっていると「あれッ俺の分がないやー」。
横取りなぞしたら半殺しの目に会う程血走ってる。三K余りの黒パンを十二名で分けてジャンケンで勝ったものから取って行く。飯盒にしゃもじ一杯の水スープと二五〇g位のパン片をもって焚火の囲りに戻り、眺めつ、すかしつ、大事に大切に一かじり、水スープは雪をとかし、飯盒一杯にしてからのむ、量より質が欲しい毎日。明日もシバレか夕陽が赤い。そして六カ月後この地で初めての入浴に我々のミイラの行列を見る。
6 ビースク収容所にて
すでに二十名程は木の下敷き、栄養失調、誤逃亡者射殺等で死んでいたが、吹雪のため交通が絶え塩不足の事態となって、残り全員も全滅寸前となった四月始めに、春を追う様に急遽ビースク収容所に移動となった。そこで炊事横のジャガイモの皮がカマス二つ程と収容所周辺に捨てゝあったビートの食べかすも雪下から掘り出され、皆一夜の内に生で腹の中に納まる。赤犬の姿も見えなくなった。全員バリノエ(病人)。空腹の末に出されたトーキビ粒の飯盒一杯の食事に全員大腸カタルが続出、一週間の内に三十名程があの世逝きとなってしまった。当時、町のバーニヤ(浴場)に行き、皆のミイラ的裸身を眺めた番台の婆さんが、日本人が可愛想だと涙を流して泣いて呉れた。食事が粟となり、牛の頭、ジャガイモと栄養食が口に入る様になり一カ月近くかゝって地獄から這いだした。
体も人間性と共によみがえり絵を画いてみる。釜のスミを落し、タイヤゴム筆をつくり、板片れに本当の炭絵で「富士」「特急アジヤ号」「汽船」の三枚を食堂に掲げた。人は云う。「シベリヤ鉄道を汽車に乗り、ウラヂオから船に乗ってそして夢に見た富士を仰ぐ。どうしても日本に帰るんだ〃‥」と。そんな意味で画いた筈でなかったのに。
7 アルタイスカヤ収容所
人間性を取戻し、シベリヤにも遅い春が訪れて「もう春ですネェー」生きのびた唄を歌いだした。その頃我々のグループは、コルホーズと鉄道貨車工場に別れて、又移動となる。東京ダモイ?も夢の間か?着いたアルタイスカヤ収容所は穴ぐらし、地下を掘り屋根だけ地上に出ていて、冬は暖かく夏は涼しい住いである。
先住部隊千二百名の内三百名余が発疹チブスで逝ったとか。その欠員穴うめのための補充要員であった。
六月、春の陽気と共に活気が出、友も沢山できて生きとし、生き抜くために慰安団「全線座」が誕生。座長沢井明を囲んでバラエティに富んだ同志の集いとなった。
8 ラポーター(労働)五態
(1) 水道栓管穴掘り作業
凍結が激しい為、深さ三m近く掘る、砂地で掘りやすい地区だった。物珍らしくロスキーマダムが顔を出す。
マダム「ドラスチェー(今日は)ヤポンスキー(日本の人)ハラッショー?(ご気嫌よろしいか?)
友のA 「ポチェームハラッショ!(ど〜してよろしいものか)ラボータムノーカ(労働無限に沢山あり)クーシャチマーロ(喰物は少ないし)ニエハラショのショ!(よろしくないことこの上なし)
友のB 「ヤァマダム・ハラッショ!ハラッショ!(すばらしい〜すてきだ〜)
オーチンハラッショ!(とってもいゝですよ)
イジーシュダー(もうすこし、こっちらへ)
もう一歩シュダー!(おいで!)
下から眺めて、履いてる、履いてない、白だ黒だとカケゴト大流行!!

(2) コルホーズい、も掘り作業
トラックに乗り汽車に乗り、遥か地平線までも続いているいも畑に着いて、我先きに掘出す。素手で掘って、籠や箱に入らず腹の中に入ってしまう。いもはリンゴで、キャベツはセンベイ、人参は柿で、トウキビは甘いミルクの味がした。生かじりの味。だからコルホーズに日本人(ヤポンスキー)は連れて行かなくなる。

(3) 石炭運び作業
八時間交代で火力発電機(鉄道工場及び附近街の電力)用の石炭運搬を二人組でやる。休憩なしで三十米位のところを木製一輪車で運搬、車も重いが石炭も重い重労働だ。だが食事は二食分あたる魅力あり、馴れない内はよく途中で引っくりかえす。

(4) 小麦かきまわし作業
体育館の様な広さの倉庫が二十棟ほど並んで建っていて、その内に小麦がバラ積されているが醗酵を防止するため上、下積かえる。外は零下三十度なのにムンムンする暖かさの屋内で木製スコップで引っかき廻す。帰りは長靴の中から防寒服、帽子、手袋の内につめこめるだけ小麦を入れて持帰り、鍛冶屋作業の友に頼んで煎ってもらう。おやつがわりにポリポリ食べた。喰べすぎ腸へいそくで逝きし友もあった。

(5) 窯たき作業
冬にはもってこいの暑い作業だが、鉄を真赤に焼くためガンガン焚かなければならず、汗のかきっぱなしで身も細る。女囚と共に働き流行の歌をならう。ロシヤ語で「ステンカラジー」「灯」「カチューシャ」等、歌とおどりが唯一の娯楽であるこの国の、上手なコーラスに驚いたものである。
9 シベリヤボーイズ誕生
地獄から抜け出た昭二十一年六月、ダモイ(帰還)の希望を持つため、慰安の必要性を痛感し村松曹長を囲んで芸能グループ誕生する。沢井座長を中心に、芝居、浪曲、手品、万才、そして三人組で高橋式シベリヤボーイズ結成。(1)アキレタボーイズ、(2)アキレタ学校、(3)村祭り、(4)孫呉空、(5)忠臣蔵、(6)シベリヤボーイズ東へ行く等シナリオ作りと、三人組の内輪げんかをしながらも仲良く練習を重ね、童謡と替歌とセリフのやりとりで持ち時間一時間受持って、どーやら抑留者の心を汲み込んだのが好評を拍した。
10 楽器購入
シベリヤボーイズの持ち楽器も、最初は箱に持手をつけ、ピアノ線を三本張った箱ギターの外に拍子木、鋸、釜、桶等の打楽器で幕明けして公演が続くにつれて欲が出て来、当時鍛冶屋組が現金を貰っていたので、拠出して呉れた金をもってバルナオ市までギター、ハーモニカを買いに行く大役をうけた。情操教育係幹部のキャピタンと二人で貨物列車(無料)に乗って行く。始めての単独行動に、戦友達はどこからか旧軍装を頭の先から靴まで見つけて呉れて、どこから見ても旧軍人の姿に戻って出掛けた。バルナオ街の青空市場で古い七本線ギターを安く値切り、肩にかけて、ある百貨店のウインドーに山とつまれた独逸製のハーモニカを見つけた。ロシヤで見た内で一番だったろう美しいデパートガールの前でカッコーつけてさ、調音曲として「赤い翼」「ステンカラジー」「黒い瞳」アンコールに答えて、軍艦マーチの独奏を夢中で吹き終る。気がついたら回りは群衆の輪、将校がおどけて軍帽を脱いで群集になげ銭の催促……街頭演芸の一駒にワーツと湧く歓声。楽しく嬉しかった一頁である。ボーイズ東へ行くの最終演芸に、女装の動員と復員の連中が結婚行進曲にのって踊るくだりとなるや、観客一同も還ったつもりになって場内一杯湧きに湧いて涙を流してよろこんでいた。
11 ナホトカの海岸で
愈々、憧れのナホトカ引湯港の近くにキャンプ生活一カ月が続く。病院船の興安丸の船体が白く映える。
いつの間にか姿が消えて悄然。そんなある日、名前を呼出されて、又貨車でバックして行く友もあり、日増しに多くなりつゝある時、一諸にアルタイスカヤを出た友の残り二百名が通訳が時計一個の買収とかで、バリノエ(病人)に早替り。急遽ダモイ(帰還)組にもぐり込んでナホトカ収容所に至る。みんな列んでいるところにもぐり、訳もわからぬ内に、スターリン万才、民主同盟ソ連万才!と唱えて関門を突破する。今ぞ踏みしめるこの脚で……極楽坂の上り道を一歩一歩力強く踏みしめて遂に登った坂上に立つ。あゝまだこの地に残っている戦友の身に思いを馳せながら、何かすまない気持一杯になって。
伐採で逝った友、栄養失調で別れの挨拶をして逝った友、又、大腸カタルで、誤射で……。恨みと口惜しさに死にきれない魂のうらはらに、自分は生きて還るのだ。嬉しさと悲しさと半々の我身が、己の体やら、人の体やら錯綜のままに船に乗り込んだ。
12 日の丸三題
(1) ブラビリヤンカの元旦(21・1・1)
昭和二十一年元旦、異国で迎えるお正月。外は零下三十五度、作業も休みで、朝トーモロコシの粒が珍らしく出た。飯盒に半分の粒を前に置いて、東を遥かに拝し〜年の始めのためしーとて〜〜一節口をついただけで絶句、あとは涙々々、何の涙かため息か……凍ったガラス窓に陽が映り、丁度日の丸が出来たのを目前にして泣けて泣けて〜。

(2) 恵山丸船尾の旗(22・6・10)
引揚船は恵山丸。その船尾に本当に新しい日の丸の旗を見る。日本の旗だ、日本の船だ、もう目の前に日本があるんだ。這ってでも行きたい内地が近いのだ。「然し待てよッ。また樺太あたりで降ろされるカモ?」疑念未だ去らずのままに見入った白地に赤い日の丸。

(3) 舞鶴入江の日の丸(22・6・13)
船は静かに入江に入って行く、ナホトカ港を出て三日目の夕刻である。狭い両岸は目に泌みる緑々につゝまれた日本の色だ。どうしてこうも色が濃いのだろう。皆一同が甲板に出て何年か振りでの日本の緑に見入っていた。俄雨がさーっと降ってきた、涙雨か皆平気で雨に打たれている。そして目に泌む緑の山合いの小高い処で、真新しい白い日の丸を振って呉れている人の名はわからず。
皆涙々でクシャクシャな顔をして泣いて手を振り答えている。泣け、泣け、ありったけの涙を流して……。
日本に還ったんだぞ、国敗れて山河あり

泣けた日の日の丸三態である。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛