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開拓小作農民の小屋

東中 岩崎 与一(六十七歳)

明治四十年頃は、まだ初期的開墾の時期であり殆んどの土地が農場であって、一人の地主が大面積を所有して居り、小作人はその地主と小作契約を結び、一年間は地主が食糧を供給するとか、二年目は自給自足で開墾をして、三年目から年貢を徴収するとかの契約のもとに入地したのであるが、一番小作人に重要な要件として、契約面積を三年から四年間で開墾に可能な土地を全部作付け出来る様にしなければならない事で、もしその期間内に開墾が出来ない場合は、小作契約は無効となり、追放になった。契約通り開墾はできあがっても、小作人は年貢が高くて採算が取れないために他の条件が良いと言う開拓地を求めて移転をすると言った具合いで、当時の小作人は転々と道内を移動したものであった。
この頃は土地の貸し下げを受けて団体で入植した所もあったが、単独の場合は農場の小作に入る事になり、小作人が土地を買い求めると言う事は経済的に中々至難な時代でもあった。
この地方の開拓は、高台地帯の乾燥地から始まり、追い追いと水に便利の良い土地から水田が広がったのである。大正二年には記録的な大暴風と大冷害の年であった事は、開拓農民にとっては全く忘れる事の出来ない、困苦と欠乏の年代であった。
大正三年には第一次世界大戦が勃発して、食糧も物価も大暴落して不景気が続いたが、一部畑作農家で青魂豆を作って豆成金になった人もあった。
開拓者は先ず草を刈り木を切り倒して、小屋を建てる事から始まったのであるが、生活のために一日も欠かせないのが水である。そのために流れ川に近い所に小屋を建てた。
一時しのぎの心算で、土に穴を掘り柱を立て細い木を切って屋根や囲いを造り、殆んど釘は無いので縄ばかり使用した。屋根も囲いも草葺小屋で、土間は丸太で仕切りをして囲炉裏(いろり)の間、炊事の間、寝間等を作った。居間や寝間には、笹や葦草の乾草を土間に敷き、その上に莚(むしろ)やゴザを敷いて寝起きをした。これを昔の人は、仮末代(かりまつだい)の小屋と言った。それはもう少し良い家を建てたいけれど、小作人には家を建てる資金が中々たまらないので、ついつい五年も十年も過ぎてしまうのでこの様な事を言ったのである。
入口には産を下げて板戸の代用とし居間の仕切りは葦簀(よしず)を張った。囲炉裏は土間に割木を燃やしたので家の中はいつも煙っていた。草屋根に穴をあけて煙り出し口にしてあった。窓にはガラスが無いので木の枠に寒冷紗(かんれいしゃ)を張ったものを使用した。
開拓の当初は、殆んど河川用水を使って炊事も洗濯も飲料水にもしたが、その頃の川には小魚が沢山棲んでいた。水を汲めば小魚がなん匹も桶に入っていた。
囲炉裏の上には屋根に火が付かないためと、物を乾燥させるために大きな棚を屋根から縄で吊り下げてあり、自在鈎も同じに下げてあり、それに鍋や釜、鉄瓶等を釣って煮物をしたり湯を沸したのである。
草や葦の屋根は三、四年も経てば雨漏りが激しくなり、雨降りの日などは所構わず雨が漏って来るので、樽や盥(たらい)を置いて雨受けをした。
冬の吹雪の日には家の中に雪が吹き込んで夜などは寝布団の上に積ったもので、莚や茣蓙(ござ)などを布団の上に広げて寝る事もたびたびであった。又、燈火は大正の初めの頃はまだカンテラと言うブリキで造った小さい壷の様な入れ物に、シラシメ池を入れて木綿の芯の先に火をともして、夜業の藁(わら)仕事や針仕事、勉強もした。
薪は開墾のできない冬の間に未開地の山林から切り出し、大きく割って、木を削って造った手橇で雪道を家へ運んだ。風呂場は殆んど水の便利の良い小川の近くにあって、大きな箱に鉄板の底を釘で打ちつけたもので、石の上に置き水を入れて下から火を炊くと言うしかけで、掘っ建て小屋に囲いだけと言う野天風呂に等しい物であった。この様な家屋であったから火災もしばしばで、明治から大正の中期以前に入植した開拓者は殆んど一度や二度は火災に合って居り、開拓者で一度も火災に合わない人は珍しい程である。
この頃の衣服は、純日本風の着物で、着物に火がついて消す事ができず焼け死んだ子供さんも随分多かった。
又、この囲炉裏の熱い灰の中に薯や人参を埋めて焼き熱いのを皮を剥いて食べるのも、又格別の味わいであったが。子供はこんな事をして随分火傷をしたものである。大きな魚なども串焼きにして黒く焼けて煙りが出ているのを家族みんなでつついて食べた幼なかった頃の思い出が目に浮かんで来る。
開拓の為に入植した人々は、働き盛りの年代の者が家庭の中心的人物であって、単身で入植した人は少なかった。従って少くとも五、六人から十人以上の家族も決して少くなかったのであるが、家長を中心に家族一同が貧しい暮らしでの中で炊事を手伝える子供は炊事を、薪を切ったり割ったり出来る子供はその仕事をと、大人も子供も力を合わせて開拓に励んだ事を、古老や自分の記憶からその一端を記して見た次第です。

かみふ物語  昭和54年12月 2日発行
編集兼発行者 上富良野町十二年生丑年会 代表 平山 寛