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第四章 個人編 女性の職業

回想−母として・自衛官として

沼倉 智子さん  三十八歳(業務隊)

   婦人自衛官になって

 沼倉(旧姓安達)智子、上富良野町出身。十八歳まで上富良野で過ごし、五十一年三月朝霞駐屯地にある婦人自衛官(ワック)教育隊に入隊、あれから今年で二十年の月日がたちました。当時の私はバスガイドになりたくて両親に相談していましたが、あまり良い返事はもらえず、募集事務所の広報官の勧めでワックを受験し、合格したのです。
 朝霞では、前期は自衛隊全般、後期は各職種に分かれて教育を受けました。当時の職種は通信(無線有線)、会計、文書の三つで、私はバスガイドのマイクを交換手のブレストに変えて働く事になりました。
 同年七月、札幌駐屯地の基地通信隊に配属、ワック隊舎は六人部屋でベッドはシングル、回りは全員先輩です。これまでの学校とは違う、階級の世界の先輩後輩……。まだ二十年前は外出規制も厳しいものがあり、残留と言って営内者の半分は営内に残って居なければならないと言う制度があり、いつも決まって残されるのは後輩ばかりで、たまの外出は先輩達のおこぼれ……。
 何よりもその頃の札幌駐屯地は女の子が夜遅くまで出歩くなんてとんでもないと、階級にかまわずワックの門限は十時、ワック隊合の躾時間がその十分前、十九、二十歳の頃はディスコが大流行で、またその頃には外出も少々出来る様になり、何度か通うと知り合いも出来るのですが、お店が込み始める頃に帰隊しなければならず、仲間から「もう帰るの」と言われ続け淋しい思いをしていた事が、今は懐かしい思い出です。

   夫との出会い そして結婚

 五十三年に旭川に転属し、旭川のワック隊舎は十二人部屋でした。二段ベッドが六個並んでいて下段が先輩、上段が後輩です。そのベッドは上の人が寝返りをしても下がグラグラしてしまうので、布団を敷くのは必ず消灯前の先輩が居ない時、自分が寝るのは先輩が眠り込んでしまってから、ベッドを揺らさない様にそーっと寝るなど気を使ったりもしました。
 そんな生活から早く脱出したいと思っていた頃、陸曹候補生の内示を頂き、五十五年二月、十二人の陸士部屋から二人の陸曹部屋へ移動、その嬉しかった事も合わせて良い思い出です。
 五十七年七月、上富良野駐屯地開庁記念行事に旭川から支援に来た時に夫と出会い、五十八年五月結婚、まだ上富良野にはワック隊舎は勿論のこと、ワックもおらず、夫は上富良野、私は旭川の営内と新婚生活から別々の暮しをして三カ月、八月の定期異動で上富良野に転属、夫と一緒に通勤出来ると、はしゃいでいたのは私だけの様でした。

   妊娠・出産

 私の勤務した職場は小さな派遣隊で、有線に関しては三人で駐屯地と多田分屯地の回線を賄[まかな]っており私が上富良野を希望した事で男の人が転出し、ワックの私が転入して来たと言うのは班にとっては相当戦力ダウンだったらしく、おまけにその年の十二月に妊娠してしまい。隊の懇談会の時に「ただでさえ人手が不足しているのに、ワックでしかも妊娠して動けないなんて迷惑な事だ。」とみんなの前で発言した人があって、男女平等とは言うものの今まで男ばかりの職場にとって、女、しかも妊娠、出産と言うのはそんなにも迷惑な事なのかと、本当にくやしい思いをしたのも事実です。
 しかし、女性が妊娠、出産し、子供を育てるのは当然の事と励ましてくれた人も中にはいて、夫は勿論両親の応援もあって、その後、三人の子供の母となったのです。

   母として・婦人自衛官として

 その頃でしたか、男女平等とは男と女が同じ事をして平等ではなく、男の出来る事、女しか出来ない事をして、それに甘えるのではなく一歩でも歩み寄り合う。それがもしお茶くみであろうと茶碗洗いであろうと、女の人が感じが良いと思ってもらえるのであれば、それは女の仕事として精一杯させて頂こうと決心したのです。
 もう一つだけ自衛官でなければと思った事があります。それは十勝岳の爆発でした。まだ上の子が三歳になったばかり、下の子が一歳の十二月二十四日夜の事でした。丁度クリスマスパーティーをしている最中に、十勝岳が突然爆発し、夫と私に非常呼集の電話が鳴りました。家は第二避難地区で、それぞれの子供の首に避難カードをかけてやり、おしめをリュックに詰めて、母に子供達を預けて出勤する気持は今も忘れられません。幸いにも爆発は小規模で大事には至りませんでしたが、あれが、もし子供達との最後になったらと思うと、子供達を置いて出勤する自衛官である母をどう思うのであろうか……と思うと、自分で選んだ道なのだからと言い聞かせても後悔しなかったと言えばウソになります。
 しかし、その子供達もすっかり成長し、自衛官である両親に理解を示し今では自衛隊の看護婦になりたいと言う子もいて、母としては頼もしい限りです。

   これからも誇りをもって

 平成五年に上富良野駐屯地にもワック隊舎が出来営内においては三人部屋で、しかも一人一人が区切られた個室になり、外出規制も大幅に変りました。勤務するワックも四十四名になり、職域も普通科を除きほぼ全域に広がりました。また後輩にも子供を育てながら働くワックが五組も勤務しています。そして上富良野駐屯地で一番先に勤務したワックも、上富良野駐屯地で一番古いワックにもなってしまいました。
 色々な事があって、色々な事が改善され、新しい時代になって行く。今の時代が当り前ではなく、ここまでにして下さった諸先輩方に感謝の気持ちを持って、これからも自衛官として誇りを持って勤務して行きたいと思います。そしてこれからの目標は上富良野で初めて定年を迎えるワック……。
 その時には子供達も成人しており、出来ればみんなが同じ制服を着て、家族五人で自衛隊の新聞に載る事が出来たら、この上ない幸せだと思っています。

掲載省略:写真〜智子さんの家族 前列左から智子さん、長男健太君、夫透さん、後列左から長女美緒さん、次女菜緒さん

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子