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第四章 個人編 女性の職業

若佐商店を営んで

若佐 アヤノさん  九十五歳(錦町)

   縁あって、上富良野へ

 私は明治三十四年十二月一日、広島県安佐郡下深川村(現在広島市に統合)で農業を営んでいた川西清太郎の長女として生まれました。弟一人、妹二人の四人兄弟でした。小学校卒業後は、農業を手伝う合間に和裁を習うなど、比較的苦労もなく年頃を迎えました。幾つかの縁談も持ち込まれる様になり、大阪の又従兄弟からの縁談も有りましたが、そんな遠い所へは行きたくないと断わりました。でも其の後、北海道の又従兄弟の所へ嫁いで来たのですから、緑とは不思議なものと自分でも思います。大正八年、十七歳の時でした。
 夫の若佐小市は広島県高田郡三田村の生まれで、大正の初め、同郷の末広利七さんを頼って上富良野へ来ていました。郷里に居た頃は近所、親戚の間で真面目な模範青年と評判でしたので、私も両親に勧められ北海道までも来る気になったと思います。嫁いで来る時には親は一緒に来てくれず、北海道から広島へ徴兵検査を受けに来ていた親戚の青年二人と三人連れでした。私はその時、当時流行の信玄袋[しんげんぷくろ]と柳で出来た鞄を持って生家から旅立ちました。道中、東京で一泊し四日がかりで上富良野に着きましたが、若い三人連れなので家出人とでも間違われたのか、列車の乗り換えの度に調べられたり、質問されたりと嫌な思いをしました。

   商業を営んで

 やっと着いた夫の許には夫の両親と弟達、妹もいて大家族でした。当時、夫は桶を作ったり、玄米を白米にする臼を製造する仕事をしていましたが、その後、数年してから食料品店を始めました。資本金もなしに始めたので、とても心配でしたし苦労もしました。その中、少しずつ軌道に乗り繁昌する様になり、取り扱う商品も増やして行き食料品、酒類、鮮魚、文房具、石油も売る様になりました。
 昭和十年頃から菓子職人をおいて、お菓子の製造販売も始め、店で売る生菓子類、飴、煎餅の他、結婚式や法事の引出物のラクガンや饅頭[まんじゅう]等の注文も引き受ける様になりました。その頃の食料品はすべて量[はか]り売りで菓子・砂糖・味噌類は勿論、酒・醤油等は二斗樽に呑口[のみくち]をつけて桝で量るのですから、とても手間がかかりました。黒砂糖は大きな樽に固まって入っていたので、鉄の棒で突ついて砕いて売っていました。野菜の種物等も小さな桝で量って売っていましたが、子供にまぜこぜにされ売り物にならなくなった事もありました。
 子供は女の子ばかり五人恵まれましたが、三女は後に終戦の二日前に亡くなりました。姑は身体の弱い人でしたし人手がなかったので、産後もゆっくり休んだ事はありませんでした。私の子育ての頃は家事も手間が掛り特に洗濯は夜、店を閉めてから大家族の衣類を大きなたらいと洗濯板で洗ったものです。また大きな物をしぼるのが一仕事でした。その他、子供達の靴下や足袋のつくろい物、店の帳簿なども夜の仕事でした。
 その頃、店にはストーブはなく、炭火ぐらいで寒いものでした。歳末大売り出しには表戸も開け放して、店の外には魚類、箱みかん等沢山並べて、商品がガンガン凍るのも仕方のない時代でした。
 昭和十七年五月に引っ越すまで店は四町内の久保商店の所にありました。お隣りの?呉服店が毎年お正月二日の初売りには朝の暗い中から縁起と客寄せの為、店の前で宝さがし(雪の中に商品やくじを埋め店で交換)をしていたので、私の店でもあやかって、暗い中から店を開けて初売りをしたものです。その頃、農家のお得意さんは馬橇で買い物に来てくれたので(どこの店の前にもつなぎ棒があった)初売にはお酒は一斗樽、焼酎は一斗瓶、うどん類は一箱、お菓子も一斗缶と大きな買い物をして下さったものです。

掲載省略:写真〜昭和8年12月、歳末大売出しの若佐商店 家族と従業員一同右より6人目アヤノさん

 また、?呉服店では八月一日、二日の上富良野神社の祭典には、宵宮からお店の前に沢山の四角い行灯が立てられ、夜にはローソクが灯されました。行灯には一つずつ上手な絵が書かれていて、それを皆さん楽しみに見ていました。古き良き時代の懐かしい思い出です。当時の祭りは賑やかなもので象、ライオン・トラなど猛獣を連れたサーカス、オートバイ、お化け屋敷など四、五軒ぐらいは見世物小屋が建ち、夜店も沢山建って、富良野沿線では有名なお祭りでした。商売をして居ると行事の有る時は忙しいので、子供に不平を言われたものでした。学校行事もその通りで運動会も朝から出かける事など出来ず、お昼のお弁当に間に合わせるのがやっとでした。

   忘れられない出来事

 大正十五年五月二十四日、十勝岳爆発の事です。あの日は、小雨が降っていました。「山津波だ、逃げろ」と走って来る人の声に驚かされました。取るものも取りあえず舅、姑と幼い娘三人を、おんぶしたり手を引いて明憲寺まで避難しました。途中、なみだ橋(現かみふらの橋)を渡る時はもう恐ろしいぐらいの水位で、家も流されて来て、その屋根の上には人が乗っていて「助けてくれ、助けてくれ」と叫んでいた声は忘れられません。
 明憲寺では危険なので、もっと高い所へ逃げる様に言われ、江花方面へ避難して二晩はどお世話になりました。夫は消防団に入っていましたので幾日もお手伝いをして家には帰れませんでした。
 幸い自宅は被害はなかったのですが、大勢の方が亡くなられ、田畑も流され、大変な被害で悲しい事でした。その後、復興には長い年月がかかりました。また、戦後は二度も噴火が有り驚かされました。素晴らしい眺めの十勝岳ですが、油断の出来ない山でもあります。

   戦中の商売、疎開そして再開

 上の娘達が女学校へ進んだ頃、支那事変が始まり次第に戦時色が強くなって行きました。そちこちの家に召集令状が来て大事な御主人や息子さんが出征して行かれました。私の店では住み込みで働いていた店員やお菓子職人も商店で働いていては軍に徴用されると言って次々とやめて行きました。丁度その頃(昭和十六年)長女が結婚し商売も後継ぎが出来、一安心しました。
 一方、商売の方は次第にやりにくくなり、品不足のため、足りない物には売れない物を抱き合わせるなど嫌な時代となりました。それより数年前から夫の体調が悪くなり、なかなか原因が分からず、夫は生まれ故郷の広島の田舎に帰って農業でもすれば健康を取りもどせるのではないかと思う様になっていました。そして昭和十七年五月、商売を止めて広島へ帰ると宣言しました。私や娘達も皆、住み慣れたこの地を離れるのはとても悲しく反対でしたが、夫の言葉には逆らっても通りません。残念ながら二十年間頑張って来た店をたたんで広島へ引越しました。夫が五十一歳、私が四十一歳の時でした。
 広島では私の両親が健在でしたので喜んで迎えてくれましたが、その後、戦争が益々きびしくなり娘婿も召集されて旭川へ入隊、そして北支[ほくし]へと出征しました。日本中戦争一色となり昭和二十年八月六日、広島に原子爆弾が投下され、八月十五日終戦となりました。翌年娘婿も無事復員して村の農協に勤めました。昭和二十六年、娘夫婦が、どうしても上富良野へ帰って商売がしたいと言って、再び来町し食料品店を始めました。
 資本金もなく一からの出直しでしたが、以前に住んでいた所なので皆さんに信用して頂き親切にして頂いて、どうにか始められて何とか見通しのついた翌年、私共夫婦や姑も一緒に上富良野へ戻って来る事ができました。
 以来、四十数年になります。夫は昭和四十九年に亡くなりましたが、私は八十歳ぐらいまで店を手伝い、現在は健康ではありませんが、娘夫婦、孫夫婦、三人の曾孫に囲まれて幸せに暮せる事を神佛に感謝しながら暮しております。(平成九年一月七日没)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子