第四章 個人編 女性の職業
霧の中の思い出
森本 愛子さん 七十五歳(宮町)
保健婦の道へ
三日坊主の私は日記をつける事が出来ませんでした。記憶も薄れた今「濃霧の中を手さぐり……」の状態ながら、当時の思い出を辿ってみようと思います。
終戦後の混乱期がやや落ち着いて来た昭和二十二年、それまで勤務していた西島牧村(その後火災があり東島牧と合併し現在は島牧村となっている)役場を退職し富良野市の実家に戻ったばかりの私のところに、当時上富良野村役場の衛生係長をしておられた北川光治さんが見えられ、村の保健婦として来てもらいたいとの事でした。それがご緑で私は上富良野の住民となり早や五十余年が過ぎました。
私は大正十一年、上川管内の剣渕で出生しました。父の勤めの関係で札幌(刑務所の刑務官として勤務)江差・富良野(北海道土木現業所河川課に勤務)などを転々とする中で、昭和十一年三月、札幌市女子高等学校を卒業した後、十六歳の時に父の勧めで助産婦を志し、札幌市奥田病院助産婦養成所に入り、十三年五月、北海道庁施行の助産婦試験に合格しました。
昭和十八年五月、島牧郡西島牧村役場に道庁の嘱託助産婦として勤務する事になりました。辺地のため無医村で、予防接種などには道から医師が派遣されており私はそのお手伝いをしていましたが、いつも見えられた道庁の先生が「これからは保健婦の資格もあった方が鬼に金棒だよ」と助言して下さり「本をあげるからおいで」と言われたので、私は札幌の先生の家まで行き本を頂いて、受験の為の勉強を始め挑戦する事にしました。
十九年に保健婦試験に合格し資格を得て、助産婦と兼務する事になり、その頃は風邪などの患者の応急処置もしていました。
この時期にいろいろと指導助言をして下さった先生のお陰で、後々までその道を歩む事になったのですが、残念なことに、大恩人である先生のお名前(設楽[したら]先生ではなかったかと思いますが)を、どうしてもはっきりと思い出す事ができないのです。
その頃のことを手帳に書き止め大切にしていたのですが、富良野に戻り上富良野に通勤する様になってから、その手帳を電話ボックスに置き忘れ紛失してしまったのです。今でも、その時の事を思い出す度に残念でなりません。
保健婦試験の前に札幌で講習会があり宿舎に入ったのですが、その時お世話になった室長が、後に上富良野で一緒に仕事をする事になった木内キミエさんでした。
かみふらのに来て
二十二年七月、上富良野村役場に保健婦として勤務する事になりましたが、当初は助産婦の仕事でした。村の国保事業と言う事で助産料が一般の半額だったのと、ベビーラッシュの初期でもあり、それなりに多忙でしたが、開業していた助産婦の人達から抗議を受ける事になり、その後は保健婦の仕事だけになりました。
しばらくは富良野から汽車で通っていましたが、旧役場庁舎(現在の本町・JAガソリンスタンド)の横手にあった石炭小屋を改造して作られた二部屋があり、当時旭野から通勤されていた元助役の加藤清さんが、仕事の都合で遅くなったり悪天候の折などに泊っていたのですが、そこを宿舎として借りる事になりました。
そして、村の保健事業も軌道に乗り始めた昭和二十三年、東京聖路加病院の保健婦科出身で「北海道で一年間、保健婦として働きたい」と道庁に希望し「上富良野に行ってみては」と言う事になった秋葉美恵子さんが赴任されました。専門の勉強をして来られただけに教えられる事も多くありました。
そんな事で小屋での二人の生活が始まったところ
に、東中出身の佐藤根律子さんが入って来られ女三人、仲も良かったが喧嘩もあったりの共同生活でした。
掲載省略:写真〜役場庁舎の裏庭で(昭和24年頃)。左から愛子さん、同僚の秋葉美恵子さん、右端佐藤根律子さん
保健婦としての日々
保健婦も三人体制となり、それぞれにアイデアを出し合い工夫しながら、冬期間は部落や婦人会の集まりに出向き、指人形などを通して先ず保健婦の仕事を理解して貰う事に努めました。人形作りも苦労しましたし台本作りも大変でしたが、楽しい想い出でもありました。
その頃は結核を患う人が多く、保健婦の仕事も結核予防に重点をおき、家庭での食器煮沸など家族内の感染予防や、罹患者[りかんじゃ]には療養所に入る事を勧めたり、また学校にはツベルクリン反応注射、BCG接種、その他の予防接種に回り、老人には血圧測定などもしたりと、殆ど家庭や部落に出向いていました。
掲載省略:写真〜自転車で家庭訪問に向う愛子さん
自転車に大きな鞄を下げて、予防接種は病院の先生と一緒に回るのですが、先生も自転車で、時には裸馬[はだかうま]に乗って行かれた事もありました。
そうした中で、いろいろなハプニングやエピソードもあり忘れられない事の一つに、昭和二十二年頃と思いますが、いつもの様に訪問に出て静修の飯田さんに行った時の事、家の前まで行くとシェパード犬の大きいのが出迎えてくれ、ノソリ・ノソリと近付いて来るので私は声も出ず逃げ出しましたが、石のゴロゴロ道にハンドルをとられ「アッ」と思ったら、道路わきの側溝に自転車もろとも転がり落ちていました。見上げると犬がのぞき込んでおり「勝ったー」と言わんばかりに立ち去っていくのです。人影もなく、やっと道路に這い上がり帰る事が出来ましたが、それ以来、訪問する時は犬がいないかと用心する様になりました。
もう一つは予防接種に学校を回っていた時ですが、旭野小学校に行くのには、石はゴロゴロ登りばかりの坂道で何時も苦労しましたが、一緒に行った事務担当の三島彰さんが、自分だけでも大変なのに私の自転車にロープを結んで引っ張って下さり、本当に有り難かった事が今だに心に残っています。
また或る時は「今日は、保健婦です」と訪れたところ保険のセールスと間違われ「保険はたくさんです」と断わられた事もありました。
過ぎし日、人々に感謝して
昭和二十六年に夫・森本春雄と結婚して役場を退職しました。翌年、長男が誕生し子育てに専念していましたが、子供が三歳になった時、体が弱くて家にいた夫の姉が子供をみてくれると言うので復職する事になりました。この時から前記の木内さんと一緒に仕事をする事になったのです。
以来二十五年間、定年になる昭和五十五年三月まで勤めさせて頂きました。
平成五年に夫が亡くなり、小屋での生活を共にした會[かつ]ての同僚秋葉さんも、北海道めぐりの約束も果たせないまま五年前に天国に行かれ、私は老人クラブに入会し月一回の例会に出たり、趣味の習字に励みながら余生を楽しんでいる現在ですが、保健婦として勤めさせて頂いた長い年月、皆様の温かいご協力があったからこそと感謝し、心から合掌しています。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子