第四章 個人編 女性の職業
和裁と私
高松 廸子さん 七十四歳(栄町)
和裁の道へ
「和裁と私」と言うよりも、私の年代の人達は皆と言っていい程、夏は親の仕事を手伝い冬の間を利用して針仕事や編物、洋裁などに懸命でした。私もそうした形で自然に和裁の道に入って行った様に思われます。
私は大正十一年八月十九日、現在の錦町・道央信用組合の所で鉄工場を営んでいた藤田豊藏、寿[とし]夫婦の長女として生まれ、上富良野小学校高等科卒業後しばらくして、駅前通りの菅原裁縫所(現みのや旅館のところ)に通って和裁を習い、家では母に、和裁の他、料理、行儀作法を教わりました。母は若い頃に大勢の人に教えていた様ですが、祖母も栃木県の足利[あしかが]にいた時、近所の娘さん達に教えていたと母から聞かされていました。
やがて戦争が始まり多くの男性がお国の為にと召されて行き、銃後の守りは、動き盛りの人は僅かで年をとった人、体の悪い人、女達となり、私達女子青年も毎日のように街の公会堂に集まって、慰問袋や千人針を作ったり、出征家族の手伝いに明け暮れておりました。
二十歳の十一月「江花青年学校指導員」の辞令を上川支庁より頂き十二月から勤務する事になりました。当時としては高額だったと思いますが、六十円の月給を頂き二年間(十二月から三月までの冬季)でしたが江花小学校に通いました。江花や新田中から六十人程の生徒が来ていましたが、指導科目は和裁の他に女性のたしなみとしての料理、礼儀作法それに体操などもあり、私にとって外に出るのも初めての上に、大勢の中に入って教えるのは大変な事でしたが、受けた以上は頑張らなければと自分に言いきかせました。
毎朝七時に家を出て四`の道を歩きましたが、数`先から「ピーン、ピーン」と道路の凍結する音がきこえて来る程の寒さで、服装も長着に袴、雪下駄、防寒着は角巻と言うスタイルなので、袴の裾が雪まみれになりガチンガチンに凍った事もしばしばでした。別珍[べっちん](綿のビロード)の足袋が三日しか持たず、当時衣料品も切符制で仲々買えなかったのでいつも母がきれいに繕ってくれていました。
吹雪で道が埋まってしまい部落の有志の方々に送って貰う途中、馬橇が転覆して雪の中に放り出された事もありましたが、今になってみればみんな楽しい思い出です。部落には父の仕事上での知り合いも多く、何時も野菜や小麦粉など自家製のものを頂き食糧事情の悪い時に助けられました。こうして皆さんに親切にして頂き無事に職務を終える事が出来ましたが、これが将来に亘って和裁の道を歩む第一歩となったのでした。
教室を開く
家にいる様になると、向かいの?幾久屋呉服店より仕立て物を頼まれ、奥様から、着る人の体形に合った仕立て方など色々と勉強させて貰い、後々まで和裁教室を続ける上で大きな力となり、今も感謝しております。
そのうちに新田中のお母さん方が、娘達に和裁を教えて欲しいと言って来られ、連日の頼み込みに負けてしまい農閑期に入る十二月から教える事になりました。初めは七、八人でしたが一月になると五人も増えて八畳間いっぱいになり、その上、戦時中の物不足で思わしい布地が無いのです。古い物を解いて持って来るのでアイロンかけから始まり、穴の繕いなど私には手のつけられないものもあり、母が見かねて手助けに入ってくれました。燃料の石炭も充分ではなく農家の生徒は薪を持参してくれました。
次の年には「藤田さんへ行ったら何でも教えてくれる」との口こみで三十人以上にもなり、奥の部屋も開け放し、妹の豊子と二人で教える事になりました。夜間は役場、郵便局、学校、農協等に努める人達が来られ皆さん一生懸命でした。私も最高に張り切れた時だったので夢中で仕事に打ち込み、教えながら仕立てもして、皆さんと語らい楽しく働き毎日が輝いておりました。
昭和十三年、二十二歳で高松光輝と結婚し夫は父の鉄工場を手伝っていましたが、私は結婚後も、そして出産してからも昼夜の教室を続けましたので、家族は不自由を強いられながらも、じっと我慢して見守っていてくれました。
しかし多忙なままに無理をしていたのでしょうか私は胃けいれんで倒れてしまいました。これを境に夜間の教室は休む事にして、やっと心のゆとりをとり戻し家族ともゆっくり話し合う時間が持てるようになりました。それからはレジャーの計画を立てては、休みを利用して山に出かけたり、家族揃って旅行したりと我が家なりの楽しみを味わいました。
掲載省略:写真〜和裁修了記念(昭和30年3月5日)。前列中央廸子さん、右長女チズ子さん、左妹豊子さん
潮時が来て
昭和五十四年頃になって、夫が目を悪くしたので鉄工場を締めました。当時文化連盟で活躍されていた伊部ひろのさんに誘われ私が短歌を初めたのもこの頃でした。そして五十七年に現在のところに来ましたが、これが潮時と和裁教室を閉じる事にしました。六十三歳の時でした。この道四十有余年、長くもあり短くもあった和裁との交わりでした。
そうした中で二人の娘(長女チズ子・二女王子[きみこ])も結婚し、自分の城を大切に、それぞれの立場で頑張っており、孫達にも恵まれ、八十三歳になる夫も毎日を元気で、友と語らい、暇をみては家の回りの手入れなど体を動かす事が好きなので、近所にも喜ばれ幸せいっぱいの日々を過ごしております。
良き人達に出会い、年齢の割には健康にも恵まれて楽しく暮させて頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。これからの人生を、ゆとりある心をもって送る事を念じつつ……。
灯にかざし透かせば細き絹糸の
わが眼に痛く光をはじく
倖せは どこまで続く ひとひらの
雲がうれひと なる夕べかも
はるけくも たどりし起伏 わがひと世
双掌[もろて]に何を つかみ得たりし
霙[みぞれ]いつか 雪に変われり 昏らみゆく
窓を見やりつ 熱き茶すする
明け暮れを くり返し来て 悔もなし
日々大切に 生くる晩年
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子