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第四章 個人編 女性の職業

老人家庭奉仕員「ホームヘルパー」第一号

高橋 よしのさん  六十八歳(栄町)

   或る日

 昭和四十四年四月、珍しいお客様が我家にいらっしゃいました。役場民生課の田中伴幸[ともゆき]さんです。
「お珍らしい、何事ですか?」の問いに「此の度、上富良野町で老人家庭奉仕員制度が始まります。就いては、その仕事をして貰えないでしょうか。いや、なに、少し仕事をしてみて、どうしても出来ない場合は辞めてもらって結構ですよ」とのお話……。
 『老人家庭奉仕員』この耳慣れない制度は、近隣町村では美瑛町が一番早く設置されたそうです。仕事の内容など一度お話を聞かせて貰いましょう、と言う事になり、アレヨ、アレヨと言う間に、上富良野町「老人家庭奉仕員・第一号」しかも只一人の拝命となりました。何の予備知識もなく、且[か]つ他人様のお宅へ伺うのですから当然、礼儀作法また心得が必要です。そして人間関係が一番大切です。とにかく漠然とそれだけを「肝」に銘じて決心を致しました。
 幸い私には祖母がいましたので、老人の気持がある程度は理解できる様にも思いましたので、それ程抵抗感もなかった事と、それに幼い時より知名度のある田中伴幸さんを信頼していたのですね。この時私は四十歳でした。

   訪問開始

 昭和四十四年五月二十六日より、一日二軒、午前と午後に分けて訪問します。第一日目、田中さんに連れられて男性の独居老人宅に行きました。むっと鼻をつく異臭です。しかし、田中さんは親しげにつかつかと室内へ、私もおずおずと後に従いました。
 そして「この度、斯[か]く斯くしかじかで……」と私を紹介し、老人の勧めるお茶を美味しそうによばれていました。でも私にはどうしてもお茶が飲めません「若いのでお茶はあまり飲んだ事がないので」と遠慮してしまいました。後で「田中さん、よくあのお茶を飲めましたね」と聞くと「高橋さん、あれは心≠よばれるのですよ。あのお茶をよばれる事によって相手も心を開いてくれるのですよ」と言われました。「ウーン、そうでしたか、正に負うた子に教わり浅瀬を渡る」です。
 私はそれ以来、老人がお亡くなりになるまで、お茶は嫌いな事にして十年余りのお付き合いをしました。そして最後と思われる病の床で、息子さんの住所と貯金通帳を託されました。
 もうお一人、市街地より約三`程離れた所に住む八十歳のご婦人の事です。終戦により樺太から引き揚げ、縁あって結婚し、上富良野町に住む事になりました。樺太時代はとても裕福な生活が出来たそうですが、こちらへ来てからは色々と大変な生活だった様です。しかも先妻の子息も大きくなり、今は夫の遺してくれた僅かな財産での生活でした。
 ある日、遠い炭坑町の親戚に行くので「ハイヤーを呼んでほしい」と頼まれました。駅までと思っていましたが、あまり金額のかかるお話なのでよく尋ねてみると、その親戚の家まで行くとのことです。私は咄嗟[とっさ]に「汽車の方がずっと安く行けますよ」と思わず口を差し挟[はさ]みました。そのご婦人は「ヘルパーさん、恥かしながら私は字が読めません。汽車の上[のぼ]り下[くだ]り、乗り換えも全部人に尋ねなければなりません。字を読むことが出来たら私はここまで来て再婚し、苦労する事もなかったと思います。私の故郷は函館なのです」と話されました。今まで何度となく硬貨とお札を取り替えてほしいと言われ、いつも不思議に思っていましたが、買い物を総て千円札でするためでした。それ以来、何のわだかまりもなく楽しいお付き合いとなりましたが、後日、姉妹の住む函館近郊の老人ホームに入所されました。この様に毎日失敗を繰り返し、手探りで十人十色の老人を相手に奮闘が続きました。

   幸福の使者

 美瑛町、上富良野町に続き富良野沿線に次々とヘルパー制度が取り入れられ、富良野沿線連絡協議会設立の話が持ち上がり、昭和四十九年七月十二日、富良野沿線家庭奉仕員連絡協議会が設立されました。加入市町村は富良野市、上富良野町、中富良野町、南富良野町(金山、幾寅)占冠[シムカップ]村で総勢十名のヘルパーの参加となり、初代会長に私が選ばれました。
 富良野沿線ホームヘルパー研修が年に二回、上川管内ホームヘルパー研修、北海道ホームヘルパー連絡協議会の研修が年に一回行われました。毎日の老人とのお付き合いの外に他町村のヘルパーとも交流が始まり色々と知恵の交換をし合い、悩み事の相談など大変参考になりました。またヘルパー自身の孤独からも救われ、小[こ]人数ながら暖かい交流が続きました。
 ヘルパーの作業内容は衣類の洗濯、掃除、室内の整理整頓、買い物、葬儀代参、食事(副食)の用意、衣類の補修、入院通院介助、見舞代理、お寺代参、石炭運び、煙突掃除、その他、現代では考えられないような作業です。
 老人の独居の理由は戦争による息子の戦死、家庭内不和、息子の転勤、宗教の違い、養子問題、老人の自立等いろいろな背景があります。ヘルパー制度が出来て、話し相手がいる嬉しさや一緒に食事をする。そのおいしさ、ヘルパーを待つ楽しみなど孤独を救って貰える嬉しさを皆さん切々と訴えられました。
 訪問の心得として、信頼される人間たれ、対象者との金銭貸借禁止、秘密は必ず守る、民生委員、町内会とも密接に、常に明るい話題を提供する、約束を守る等の心配り気配りが大事です。
 終りに当たり、過去十五年間のヘルパー生活で数々の失敗、喜び、笑い、泣き、怒りなどなど色々な経験をしましたが、老いて行く淋しさの中で、せめて一生の最後は安穏に終っていただきたいと言う思いで務めさせて貰いました。対象人数四十五名には四十五通りの人生がありました。色々なふれ合いと人生を垣間見させていただきました。
 ヘルパーは幸福を運ぶ使者でなければなりません。益々の健闘を祈るばかりです。当時、多数の皆様のお力添えをいただきました事、心より感謝致します。

掲載省略:写真〜訪問先で宮野ミカさん(左)とよしのさん(昭和49年頃)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子