郷土をさぐる会トップページ        かみふらの女性史目次ページ

第四章 個人編 女性の職業

教育・育成に捧げた我が人生

鈴木 弥江子さん  八十歳(栄町)

   洋裁を志す

 父が国鉄(現在のJR)の駅長をしており、主に道南地方を転勤していたが、私が生まれたのは函館で、大正五年七月三日、一男五女の四番目、三女であった。幼少時から何事も負けず嫌いの活発な子供だった事を憶[おぼ]えている。
 昭和六年、北海道庁立函館高等女学校へ入学し勉学に励んでいたが、病魔に冒[おか]され長期療養が必要な為、卒業までの半年を残して止むなく退学したが、あの時の無念さは、六十余年経った今日も忘れられない。昭和十六年、長く患った病が完全に癒えた私は当時、洋服、洋装が一般庶民に普及していた事もあり洋裁で身を立てようと考えた。父も快諾してくれたので安心して、函館洋裁技芸学院裁断研究科に入学、好きな道だったので一心に学び無事卒業したが、一旦この道に入った以上は男性用の洋服にも挑戦しなければと、十七年四月、東京洋服学校に入り翌年卒業して函館に帰った。
 その頃は、国鉄を退職し雑貨店を経営していた父の手伝いをしながら、夜間は頼まれた洋裁に精を出した。早く仕上げようと夢中になって縫っていると白々と東の空が明けて来て、一睡もしなかった事も度々であったが、大して疲れも感じなかったのは二十代と言う若さのせいだったと思う。

   新地上富良野で洋裁研究所

 昭和十九年、大家族の主婦であった姉が、疎開のため上富良野に行くことになり手を貸して欲しいと頼まれ、姉一家の手助けになろうと軽い気持ちで来た上富良野であったが、あれから数えて五十年余も暮している事に我れながら驚いている。
 翌二十年、終戦と共に姉は大家族を引き連れ函館へ戻ったが、私は当町に残り当時七町内(現在栄町二丁目)にあった大黒屋旅館を購入して「メリー洋裁研究所」を開設した。
 戦後の混乱した社会から徐々に民主主義が浸透しアメリカナイズされた思想は衣服への関心につながり、洋裁技術を習得する女性が三人、五人と「メリー洋裁研究所」の門を叩いてくれる様になった。冬期間には通うのが困難な農家の娘さん達が十人程、住み込みで自炊しながら技術習得に励んでいた。
 次第に、花嫁修業の一環として娘に洋裁を習わせると言う風潮が広まり、習いに来る娘さんが激増した事から昭和二十四年に現在の自宅で、上富良野高等洋裁学院を開設したが、当時は道知事の学校教育法第四条に該当の認可が必要で、その手続きに奔走した事を懐かしく思い出す。開設を待っていたかの様に希望者が集まり、冬期間は更に生徒が増え、学院は手狭になったので二階を改造して教室を拡張し、積雪寒冷地に即応した防寒衣服に着目、実用化して重宝がられた。
 一方、和裁を習いたいとの要望と共に、仕立ての依頼もあり、教える傍ら渋江さん、宇佐見さん、のんきや(土田)さんの奥様方の着物やコートなどを随分と縫わせて頂いた。
 また町や農協の後援を得て、高速度編物講習も開催したが、当時編物といえば棒針や鉤針編で、機械による編物は初めての事なので大きな反響があった。「娘に習わせて欲しい」との熱心な要望に、札幌から北海道編物専門学校の教師を招いて編物科も開設することになった。

   高等家政女学校設立

 昭和二十七年、財団法人上富良野高等家政女学校を設立し理事長と校長を兼任。教材、機器の充実を図り編物の普及、和洋裁の研究改善に力を入れた。
 学生の増加に伴い、学生達は自発的に校友会を組織し、生花を習うなど花嫁修業に励む様になったので、講師を招いて華道、茶道、礼儀作法などの講座を設け、又、教師にも研修、研鑚[けんさん]を奨励し東京の洋裁学校に派遣したり、優秀な学生には授業料免除の特典を与えたりもした。
 時代に即応した経営、運営が良かったのか学生は年毎に増加し、ファッションショーを上富良野劇場で、北海タイムス社の協賛を得て開催し大盛況であった。その時、海江田町長より賞詞を戴いた感激は今も忘れられない。

掲載省略:写真〜上富良野高等家政女学校第8回修了式で大勢の生徒に囲まれて、前から2列目中央が弥江子さん(昭和32年3月3日)

 更に昭和二十八年、以前から青少年の育成に関心があったので小、中、高校生、それに一般の人達をも対象に書道部と算盤教室を開設、後に、旭川教育大学の学生であった山本章さん、渋佐勝さんにお願いして英語と数学を、洋裁が終った後の四時から開講した。道内各都市で算盤の検定が行われ、その都度、参加する生徒の手続きや引率教師の選任など、毎日が心身共に忙しく睡眠時間を削って働いたが、充実した日々でもあった。

   児童福祉の道へ

 高度成長期に入り就労などで社会に進出する母親の増加によって、長年心に秘めていた児童福祉への取り組みを具体化したいと考える様になった。そのきっかけとなったのは、昭和三十一年より保護司を拝命していた際、保護施設を視察したり、誤った人生を正しい道に更生援助するなどの係わりの中で、人間形成のほぼ完成する幼児期の育て方が、その人の一生を左右する事を痛感したからであった。
 そして昭和四十五年、保育園設立にこぎつけた。
限られた自己資金でのスタートであり、園舎は木造、暖房は石炭のルンペンストーブと言う状態で、建物、設備も充分ではなく苦労の舟出となったが、園舎で喜々として遊ぶ園児達の姿を見て、家庭保育の出来ない両親に代わって行う保育事業の重要さを改めて認識し、また限られた予算の中で懸命に保育に取り組む職員の姿勢が、心の支えになり励みとなった。
 翌四十六年、厚生省の認可を受けるべく役場、上川支庁、道庁へと毎日の様に書類を持って走り回ったが、辛い四十七年に、上富良野町及び関係機関の方々の尽力により、社会福祉法人わかば会の設立認可を得る事が出来、長年の夢が実現したのであった。
 園舎とその敷地を、わかば会に寄附し、二代目理事長を元町長海江田武信様にお願いして、私は園長として園の運営に専念する事にした。現在は三代理事長を飛沢尚武様にお引き受け頂いているが、昨今の社会構造の変化に伴い、女性の就労、核家族の増加等で乳児や障害児の入園を希望する声が高まり、これらのニーズに応えるべく、五十五年に障害児保育を、五十六年に乳児保育を開始した。
 幸いな事に防衛庁と町の補助を受け六十一年に、手狭で老朽化して来た園舎を取り壊し新築する事ができ、関係機関に対し深く感謝しつつ新たな思いで保育事業に励んで来た。

掲載省略:写真〜昭和61年に新築された現在のわかば愛育園

   顧みて

 平成八年、開園二十五周年を迎え、これまでに四百二十三人の卒園生を送り出したが「三ツ児の魂百まで」と言われる様に、この人格形成期に心身共に健やかに逞しく育てたいと、裸足[はだし]の保育、剣道や歩くスキー、リズム運動に竹馬、リトミック等を取り入れ体力づくりや情操教育に力を入れて来た。二十五周年と言う節目を機に尚一層、児童福祉の向上に努力して行きたいと気を引き締めている。
 思い起こせば昭和二十年、混沌[こんとん]とした社会情勢の中、単身上富良野に来て、戦後五十年の歴史と共に歩んで来たが、婦女子の教育に始まり青少年の育成、乳幼児の養護、教育と一貫して人づくりに終始した事業経営であった。この間には開校以来三十余年続けた高等家政女学校を五十八年に廃止したが、卒業生は千人を超え、その子供や孫が、わかばの園児となり卒園して行き、今では父母の会の役員や職員として活躍されるなど、様々な関わり合いの中で、出合いの妙を思い感無量である。
 平成元年に上富良野町長より社会福祉貢献賞を戴いた事が、私にとっては至上の喜びであり、また平成六年には飛沢理事長共々、全国社会福祉協議会長賞を戴き「子供は地域の宝」を理念に努力して来た事が評価されたものと嬉しく思っている。
 法人組織にする為に数々の苦労を重ねたが、今となっては寧ろ懐しい思い出であり、幾多の苦難も、多くの人々の支援のお陰で乗り越え今日ある事を感謝しながら、残された人生を精いっぱい、児童福祉事業に捧げたいと思っている。

掲載省略:写真〜上富良野町社会貢献賞を受賞される弥江子さん(平成元年11月)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子