第四章 個人編 女性の職業
助産婦として
澤田 ツヤ子さん 六十七歳(日の出)
産婆を志す
昭和四年、島津で農業を営んでいた父金山作次郎、母ヒサイの間に、五人きょうだいの二女として生まれ育った。小学校卒業の頃は看護婦になりたいと思っていたが、二人の兄が出征中で働き手が足りない為、家業を手伝う事になる。
昭和二十年、終戦直後に兄達が復員し、その十二月の事、兄嫁が流産したので産婆を呼びに行った道中の話の中で「産婆にならないか」と勧められ、考えた末に決心し年が明けたばかりの一月、十六歳で、産婆の第一人者であった相馬とらよ師の下に、住み込みで弟子入りした。
産婆の仕事は予想以上に多忙で、自宅分娩のため泊り込みで二日がかりになる事もあり、産後も一週間は毎日、遠い所は一日おきに赤ん坊の湯浴[ゆあ]みと褥婦[じょくふ]の経過を見に通うので、師は殆ど家に居る事はなかった。
師は昭和の初めに二十歳で開業したとの事であったが、昭和十七年に夫と死別、小学生であった三人の子供を養育しながら産婆を続けていたが、昭和三十七年に脳卒中で倒れ五十八歳で亡くなった。
修業時代
産婆の修業は見習い助手をしながらの勉強で、お産になると聴診器や消毒用品などの七ツ道具が入った鞄を持ってお供をし、初めは汚物[おぶつ]洗いが仕事であったが、時には産婆の所で出産する人もおり一週間は泊るので、食事の世話など雑用に追われ自分の時間は殆ど無く、夜に勉強するにも電気は居間に一灯あるだけで、寝室も一部屋に家族全員が雑寝[ざこね]するので、枕元にコトボシ(カンテラの事で、細い綿糸の芯を立てる口金が付いているブリキ製のもので石油をともした)を置いて周りを厚紙(ダンボール)で囲い、こっそりと勉強した。
お産は昼も夜もなく何時呼びに来られるか分からないので、盆も正月も実家に帰った事はなかった。
翌二十二年、旭川の奥田産婦人科病院に住み込み五円の月給を貰いながら一年間、資格修得の為の勉強をし、産婆の資格を得て師の下に戻った。
産婆になって
昭和二十三、四年は終戦後の復員によるベビーラッ
シュで、日に五、六人の出産があり、出先きに次の迎えが来て家から家を渡り歩くと言った状況で、一年に四百人近い赤ん坊を取り上げた。
夏は自転車で、遠くは清富、旭野の山奥まで十`の道を走り、夜はハンドルに電灯を付けたが、ほんの四、五b照らすだけで、橋は幅が狭く通るのがやっとの所もあり、特に春秋は泥んこ道で大変であった。
冬は箱馬橇に湯たんぽを入れて迎えに来る事もあり、靴を脱いで温まっていると突然橇が傾いて箱ごと雪の中に放り出され、夜などは靴が何処かに行ってしまい大変な目に会ったが、不思議と夜半に呼びに来られる事が多く、除夜の鐘を馬橇の上で聞いたことも何度かあった。
ひとり立ち
昭和二十五年、美馬牛で魚屋をしていた夫、津田国雄と結婚した。当時の美馬牛は師団用地が解放になって多くの入植者がおり、それまで産婆をしていた魚屋の奥さんが函館に転居されると言うので、その後を継ぐ形で美馬牛で開業する事になった。
助産婦(昭和二十三年、法の改正により助産婦となる)の仕事は母子の命を預かると言っても過言ではなく、その度に緊張したが、中には助産婦の手に負えない事もあり、近所や部落の人達が産婦を戸板に寝かせて担ぎ何時間もかけて病院に運んでくれた。
妊婦の定期検診など無いので、お産の間際[まぎわ]まで働き、陣痛が始まり慌てて呼びに来る有様で、T字帯の用意もなく、おむつに腰紐を縫い付けて間に合わせたり、産床(布団の上に油紙や新聞紙を敷いて汚物が洩れない様にする)を作るにも新聞を取っていない家庭が多く、新聞紙を持参するのも助産婦の役目であった。
いざ出産となり、赤ん坊の頭が見えているのに仲々出て来ない時などは、卵白を塗って滑りを良くし産婦の陰部が裂けるのを防いだり、また赤ん坊の体は脂肪が多く石鹸では落ち難いので、口に含んで解[ほ]ぐした卵白で拭いたりしたが、これは石鹸代りでもあり消毒作用もあったのではと思うが……。
助産婦になって初めて、一人で江花の芳賀さんに行った時の事、赤ん坊が大きかったせいもあったが緊張の余り、沐浴の際に盥[たらい]の中に落してしまったと言う失敗もあった。
掲載省略:写真〜産婦宅に出向き赤ん坊の沐浴をさせるツヤ子さん(昭和38年、34歳の頃)
お産事情
お産は不浄のものとされた風潮が残っており、火の気のない奥まった部屋で、畳を剥いだ板の間に筵を敷いて木灰をおき、使い古した布団などのポロ布を重ねた上にお座りをしての座産があった。
叺[かます]を積み重ねてコの字型に囲い後にもたれて座り、天井の梁[はり]にロープを吊して掴まり、陣痛が来ると腰を浮かして息み、産後も一週間はそのままの状態で過ごすと言うお産も一度あり、納屋の片隅で、たった一人ばっちの淋しい出産もあった。
縁起を担ぐ人も多く、産後一週間は汚れるので褥婦を部屋から出さない。おむつはストーブの側に干さない。山仕事をする人は、お産が近付くと飯場に泊り込み、家から通って働く人は一週間休む。鉄工場など火を使う仕事は火の神の怒りに触れるので一週間休業する。と言う様な事であった。
褥婦の食事は、一日目は妙り塩(ストーブの上に半紙を敷き塩をのせて炒る)をまぶしたお粥で、二日日からは梅干しと味噌漬け、三日目になると、力がつき母乳の出も良くなると言うので餅をついて食べさせたり、七日目には赤飯を炊いて祝い、魚も食べさせるのが一般的であった。
母乳の出ない乳児には粉ミルクが配給になったがご飯を炊く時に重湯[おもゆ]をとったり、小麦粉を溶いたものや米汁(米をうるかして擂[す]ったものを漉[こ]した汁)などを乳代りにし、農家では山羊を飼いその乳を飲ませていた。
おむつは古い木綿の着物や布団側を刺して作り、破れたら継を当てて繕い繰り返し使っており、また双子が出産した時などは隣近所の人が産着のお下がりをくれたりしたものであった。
つわりの時に夏蜜柑[なつみかん]が食べたくて買っては来たものの姑の前では食べられず、自分の部屋で食べようとしたが匂いがするので気になり、とうとう食べなかったと言う話もあった。出産年齢も高く、私が扱った中では四十八歳が最高齢で、中には七年間に七人(毎年続けて)出産した人もあった。
転機が来て
相馬師が亡くなった翌年の昭和三十八年、知人の勧めもあって上富良野に戻り、師の家を譲り受けて再び開業したが、四十年頃から病院でのお産が多くなり出産数も減って来た事もあって、昭和五十五年に助産婦の看板を降ろし、五十年から現在のところに移り養豚業を始めていた夫の仕事を手伝う事にした。
回 想
助産婦の道を選んで三十四年、取り上げた赤ん坊は千人余りにもなるが、その一人一人が無事に産まれ元気な産声を聞く時が、助産婦としての最高の喜びであり無上の感慨であった。
その間に私自身も三人の子供を産み育て、或る時期は子供を背中に、また或る時は大きなお腹を抱えて自転車を走らせた事もあった。
「子は親の背中を見て育つ」とは良くいったもので、私に背負われ一緒に走り回った二女も助産婦の道を選び、現在旭川医大病院に勤めているが、かつて私が取り上げた子供の赤ん坊を取り上げると言う巡り合わせもあり、今なお、在りし日の感慨が甦[よみがえ]って来るのである。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子