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第四章 個人編 女性の職業

「中茶屋」の思い出

工藤 よしのさん  八十八歳(栄町)

   「中茶屋[なかちゃや]」とは

 戦前の十勝岳は、夏は登山、冬はスキーの名所で、道内はもとより本州、九州方面からも客が訪れ、宿泊所であった吹上[ふきあげ]温泉旅館も繁盛していた。
 上富良野市街地から吹上温泉まで四里半(十八`)の道程で、中茶屋は丁度その中間に在り、登山者の休憩所、いわゆる中継点と言う事で「中茶屋」と呼ばれていた。
 十勝岳爆発以前は三浦兼吉と言う人が店を開いており、硫黄鉱山に働く人達に便宜を図っていたが、後に鉱山が閉鎖になり店を閉めたので、当時、吹上温泉を経営していた飛澤清治さんに、留守番にと頼まれた祖父の関口仁太[せきぐちにた]が、昭和二年に中茶屋に来たのであった。

   中茶屋に来て

 その頃、一家は富良野市に住んでおり、父石川政治は大工で、吹上温泉旅館の建築工事の際には三カ月間仕事に来ており、私は四人姉妹の長女で、二十歳の頃から中茶屋が忙しい冬期間に手伝いに来ていたが、二十四歳の時、飛澤病院で働いていた夫の工藤信次郎と結婚する事になった。
 媒酌人である飛澤病院の奥さんがご馳走を作って下さり、式場は中茶屋の座敷で、隣りの村上清太さんのおばさんと病院の人達が立ち会いで、私は割烹前掛のままと言う細[ささ]やかな結婚式を挙げ、夫と共に中茶屋に住む事になった。
 夫は街へ出る用事が多く殆ど家に居る事は無かったが、酒も煙草も嗜[たしな]まず馬と相撲が大好きで、特に相撲は大鵬の大ファンで、地方巡業の折には欠かさず富良野まで歩いて観に行き、相撲の本が愛読書であった。

   中茶屋での暮し

 中茶屋は大きな二階建てで、玄関を入ると広い土間になっており、冬は大きな薪ストーブを焚き、一般客はその回りに腰かけて休み、特別な客には別に休憩室があって、そこでお茶を出したり湯たんぽを温め、夏には近くに湧いている冷めたい水を汲んで来て差し上げていた。
 夏は自転車で来る人が多かったが、山道はカーブの多い坂道なので自転車を中茶屋に預け、そこからは荷物を背負い歩いて登って行った。
 スキーシーズンになると遠くは東京、横浜からの客もあり、土曜日などは夜半に起こされ、ストーブを焚きつけ湯たんぽを沸かしたり湯茶の接待をしたり、また冬休みには一度に百人もの大学生が合宿に来た事もあり、それはもう大変な忙しさであった。
 或る冬には大学生二人が遭難して、役場や警察、青年団など大勢が中茶屋に泊り込んで捜索に当たったが見つからず、雪融けの五月になって発見されたと言う痛ましい出来事もあった。
 営林署や鉄道、郵政など、各方面の役所から偉い人が来られたが、中でも印象に残っているのは、昭和七年に北海道庁長官・左上信一様が来られた時の事で、休憩のため馬橇を降りられる際に、靴を履かれるのが面倒と思い祖母が「わら靴」を勧めると、長官は大層気に入られ夫人のお土産にと所望されたので、早速、山加の佐藤儀助さんに頼んで作って貰い、翌日帰られる折に差し上げたところ、とても喜んで持ち帰られた。
 この「わら靴」は、稲藁[いなわら]で編んだスリッパの様なもので(稲藁が手に入らない畑作地帯では燕麦殻[えんばくがら]を使った)冬期間の庭履きとして用いられていたが、軽くて暖かく珍らしい事もあって、多くの客に上げて喜ばれた。
 また朝鮮の李王殿下[りおうでんか]がスキーに来られた時は、お忍びと言う事であったが、役場や警察の人達が警護に当たっていたのを憶えている。
 そして昭和十四年一月には、東本願寺の大谷智子裏方が見えられ休憩室で休まれた際に、裏方が小用を足されるとの事で、当時はトイレは外にあったので私が案内し、洗面器に水を取って差し上げると「有り難う」と優しく言って手を洗われた事が、最も印象深かった。
 お偉方の案内役としてよく本間助役さんが来られたが、時には、担当の人が中茶屋に泊って電話連絡に当たるなど、その度毎に大変の様であった。電話も「チリリン」と一つベルが鳴ると役場、二つは中茶屋、三つが吹上温泉と決めてあり、常時この方法で連絡がとられていた。
 馬方も佐藤芳太郎さん、六平健三さんと息子さん木内要さんと弟さん、日の出の藤田さんと言った方達が記憶に残っているが、私は、こんな山奥に居ても偉い人に会えて幸せだと思って暮した。

   もう一つの生活

 祖父は朝早くに起きて豆腐を造り吹上温泉に上げていたが、造材の馬追いが休憩に寄ると、祖母は豆腐の味噌汁を作り大きな丼で振るまい美味しいと喜ばれ、登山客には醤油をかけた湯豆腐が好評であった。
 祖母は小遣いの足しにと、豆腐十丁程を林檎箱に入れて背負い山加の部落を回り、一丁(今の二倍の大きさ)十銭で売っていたが、湧水を使い本当の手造りなので評判が良く、業々[わざわざ]買いに来る人もあった。
 五、六種類の駄菓子も置いており、祖父が馬で市街まで出かけ、若佐商店からガンガン(蓋の付いたブリキ製の一斗缶)で仕入れて来て、硝子の容器に移し棚に並べ、少量ずつ目方を計って売る小商[こあきな]いなので、儲[もう]けなどはなかった。
 そんな中で、三男三女の六人の子供を産み育てたが、初産の時は実家に帰り、二人目からは自宅分娩で、山加の梅木さんのお婆さんに取り上げて貰った。学校が遠いので、長男は実家から富良野小学校に通わせ、中学二年になって中茶屋に来たが、下の子供達は毎朝四時に起きて、四`の道を旭野小学校に通わせた。吹雪で道路が埋ってしまうので、父親が馬橇で道を開け、時には学校まで送ったりもした。

掲載省略:写真〜昭和18年8月、十勝岳登山。満州から来た、よしのさんの妹家族工藤家と当時吹上温泉を経営していた陶家の人達。

   中茶屋を閉じる

 昭和十六年に戦争が始まり、登山者も少なくなったので店を閉じ、山加農場で土地の払い下げを受け生まれて初めての農業をする事になった。山奥の畑なので熊も出没し三度出会ったが、或る時は子供を連れて行き芋の種蒔きをしていると、近くの笹薮[ささやぷ]から熊が現われ「子熊だから掴えたら?」と言うと、二男は一目散に逃げ帰った事もあった。
 昭和三十年には中茶屋を引き揚げ、山加に移って農業を続けたが、長男の勤めの都合もあり街に出る事になった。

   そして今日[こんにち]に

 昭和三十八年に宮町に来て一年間過ごし、日の出(現在の東町)の職員住宅に六年間住み、四十五年に現在の所に家を建てて落ち着いた。
 街に出て五年後、夫は高血圧で倒れ四十八年に八十歳で亡くなり、今は長男の家族と暮している。目の手術で一昨年、昨年と二度入院し迷惑を掛けたが、今は良く見える様になってセーターなど自分の物を編んだりしている。
 日の出に居た時に老人会に入れて貰い友人も出来て、温泉湯治や春秋の旅行など楽しみも多かったが、ここに来てからは栄町の「こあら会」に入り、毎月二回の集会に弁当持ちで出かけるのが楽しみである。
 ぼけ防止にと思い日記をつけているが、長男の孫が毎年お年玉にと日記帳を買ってくれるので、かれこれ十冊になり、これも楽しみの一つになっている。
 街で出会った人に「中茶屋に居た人でしょう!」と声をかけられた事もあったが、今は当時を懐かしく思い出しながら、お陰で長生きが出来、こうして幸せに過ごせて有り難い事だと思っている。

掲載省略:写真〜會孫の敬太ちゃんとよしのさん(平成8年4月23日)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子