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第四章 個人編 女性の職業

商店昔話・思い出すままに

金子 須美さん  八十二歳(錦町)

   創業百年のいしずえ

 上富良野町は平成九年で開基百年ですが、私どもの?幾久屋呉服店も、平成十年には創業百年を迎えます。私は昭和十年に嫁いで来て、上富良野出身ではありませんので、亡くなった姑に聞いた話などを交えて、少し書いてみたいと思います。
 創業者の先代・金子庫三は岩手県出身で南部藩の御用商人の四男に生まれましたが、明治維新で家が破産した為、家出して北海道に渡り、旭川の花輪商店と言う金物屋で働いていました。当時、上富良野に入植した三重団体の人達は、米や味噌、日用品を買うのに、働き手の男が旭川まで、どうしても一晩泊まりで行かねばならず、誰か上富良野で店を開いて欲しいと頼まれ、それで来たそうです。
 明治三十二年六月、今の草分「富来橋[ふうらいばし]」の所に掘立小屋に縄筵[なわむしろ]の戸の家を建て商売を始めました。農家の人の望むものは何でも仕入れ、裸馬[はだかうま]の背に商品をつけて熊の出る様な道を旭川へ往復したそうです。

掲載省略:写真〜明治33年春、新市街(現錦町2丁目)に開店した?幾久屋

   にぎやかだった商店街

 私が嫁いで来た昭和十年頃は、商店街は今の大町(いしずえ通り)が一・二町内、錦町は三・四町内、中町は五・六町内、栄町は七・八町内の各商店街で大変にぎやかでした。当時はまだ村で、人口は一万五百人ぐらい、町になった昭和二十六年頃は、一万三千五百人ぐらいで今と同じ、後に最高一万八千人ぐらいまで増えました。それに自動車も無く、子供達は道路の真ん中で遊んでいました。「暴走する放れ馬に気を付けなさい」と、いつも注意していましたが……。
 現在の錦町二丁目(旧四町内)の家並は、ミモザ美容院が長瀬馬橇製造所、次が小笠原綿打ち直し所(後に二木板金屋になった)、阿部金物店、荒川桶屋(現在荒川食品店)、吉岡さん(後に魚屋を始めた)、杉山時計店、安田さん、花輪商店(後に向かいに移って、ふじや洋品店になった)、若佐商店(現在の久保商店の所)、そして石倉、?幾久屋呉服店。向かい側は畿久屋金物店、赤川菓子店、藤田鍛冶屋、若木豆腐店、本郷花屋(葬儀屋)、西村建具屋、長谷醤油店、そして現在の多湖鉄工場、勝井履物兼新聞店、荻野電気店、松居畳店、杉山かねさん(桐山英一さんの母)と続いていましたが、現在残っている所は少いです。
 道の側溝にはドブ(汚水)が流れ上に板橋が並んでいて、夏休みなどは子供達が三十人ぐらい集まって、毎朝そのドブ板の上でラジオ体操をしていました。出る度にカードに丸印を押してもらい、手ぬぐいやタオル、風呂敷などを貰うのが、とてもうれしかったそうです(吉岡光明さんに伺った話)。
 現在は一軒もありませんが馬のひづめに打つ蹄鉄屋が何軒もあり、馬具屋もありました。上富良野は有名な軍馬の育成地だったからでしょうか。その他鋸の目立て、麹[こうじ]屋・粉ひき所などの店が栄町の端まで続いていました。

掲載省略:写真〜大正末期頃の市街地本通り?幾久屋附近(高橋七郎氏所蔵)

   昭和初期の?幾久屋

 当時の幾久屋の店では、木綿の小巾反物、広巾は七五aのネルやメリンス、それにメリヤス下着が主で、洋服類は殆どが作業ズボン、それに学生服が少々でした。
 店の奥は畳になっていてカウンターには火鉢が並び、それを挟んで番頭がお客様の相手をし、商品は注文の都度、小僧が後ろの棚や倉庫から出して来ました。店員は男ばかりで、先代の出身地、岩手県から来ていました。炊事は、台所の手伝いの女の人三、四人で、多い時は一俵(六十`)の米が二、三日で無くなる程で、米屋・雑貨店・金物屋の店員も一度に来て食べました。漬物も四斗樽七、八本がいつも並んでいました。
 女性の店員になったのは戦争が激しくなった昭和十七年頃からです。当時は農家人口が大半で、大方の家では主人がサイフを握っていて、奥さんと二人で馬車で街へ来て子供、年寄り、義弟妹の物、更に使っている人達の物まで買って行かれたものです。
 商品の値段は、男物裏毛(起毛)メリヤス下着が八十銭−一円十銭でしたが、今は七百円−千円ぐらい。着物綿(判綿[ばんわた])一枚四銭が今は百五十円。白ネル一尺(約三十a)が五銭、今は一bで三百五十円−四百円ぐらいです。
 子供の出産祝は、生卵十個ぐらいが普通で、良い物だとメリンス生地一、六b(五尺五寸)を上げたり、使い物には良く木綿縞も売れました。モンペや作業衣を作るのに重宝され、小巾(三〇−三五a)の木綿縞半反(六bぐらい)で、値段は五十−六十銭ぐらいだったと思います。木綿糸は今、一束八十円ぐらいですが、当時は何でも自分で作ったので一貫目(今の糸五十束程)単位で三十−五十銭ぐらいで良く売れました。
 お正月の初売りは朝三時頃の暗いうちから、馬橇を連ね家族総出で来て、外で焚火をして待っており、六時には一斉に開店しますが「早く開けろ。早く開けろ」とドンドン戸をたたかれました。開店と同時にナダレの様に入って来て、奥の方のお客は押されて「死ぬう。死ぬう」と悲鳴をあげました。買物もまとめ買いで、山の様に買った品物を馬橇に積んで帰る時は皆うれしそうでした。でも、中には除夜の鐘を聞いて、やっと手に入ったお金で米を買いに来て、それからモチをつく人達もいたそうです。
 米の値段は、昭和十年で一俵十四円二十銭、明治三十二年創業の頃は四円ぐらいだったそうです。
 現在の山崎歯科分院の所で精米場もしていて、先代は前の海江田町長のお父さんから、島津農場の年貢米を一手に買わせて貰っていたそうです。内地米も買い、カマスに入れて、?特選米として十勝、帯広、釧路方面にまで出していました。

   戦時中の暮し

 昭和十二年、支那事変が始まった頃からだんだんと商品が無くなり、十七年頃から配給制の統制経済になりました。商店を何店かまとめて統制組合として切符による配給所になりました。切符制では家の人数割で配給になり、衣料は木綿の原料が輸入品なので点数が高く、国産の柄物は少ない点数で買えました。
 配給の中でもゴム靴などは貴重で、抽選で当たった人はサイズが大きくても小さくても大事に使い穴があいても糊付けして、つぎはぎで履いたものです。
 大変目先の利く番頭の小野寺さんが統制経済になると言うニュースを聞いて、すぐに夜行列車で小樽へ行き沢山の商品を仕入れてくれました。その小野寺さんをはじめ番頭、そして主人も召集になり、若い小僧は徴用でいなくなり、女店員二人と子供、義妹で細々と定価で売っていましたが、いつの間にか沢山あった商品も無くなってしまいました。最後に半衿と鳥打ち帽子が残りましたが、鳥打ち帽子は「二つ合わせて袋を作る」と買って行かれ、それも無くなりました。
 その頃から、自分の衣類を解いて子供の服やモンペに作り直す様になり、また街の人達も食べる為に空地に畑を作るようになりました。私も嫁に来た時に持って来た布団の衿に付いていた別珍で、長女に入学の服を作りました。昭和二十年の話で、この年は運動会もなく、どの店も戸を閉めていました。

   育てられて百年

 夫の金子全一は、昭和十九年六月に召集になり、二十一年五月に帰って来ました。その頃は気が抜けた様になっていましたが、小樽の戸出物産という問屋の人が「商人が農家の真似事をしている時ではない。お客さんの為になる様な仕事をしなさい」と言われて目が覚めたと言います。
 農地法で土地も取られ、他の町にあった土地を売って作った二、三万円を元手に店をスタートしました。最初はオヤキを焼く型やナベ、カマなどです。忘れもしないのは、湯たんぽを売ったところブリキ板が薄かったのか、足をのせたら一晩でペタンコになったと、お客にしかられた事です。
 衣料品を扱ったのは、真綿を細くよって毛糸の様にしたものが最初でした。そのうち東京から昔の問屋さんが来て、家に泊め、オニギリを持たせ、お金も前金で渡して、やっと商品を送って貰えるようになりました。
 沢山あった庫[くら]の中の商品を、一点もヤミ商売しないでバカ真面目に販売して来た事が、正常な時代に戻った時にお客様の信頼を得て、今日まで店を続けてこられたのだと、お客様に深く感謝しています。
 町も百年を機に新しい一歩を踏み出します。?畿久屋も皆様方に育てられ、これからも歩み続けて行きたいと思っております。

掲載省略:写真〜平成10年、創業百年を迎える現在の?畿久屋(平成9年6月25日宮町3丁目に移転オープン)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子