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第四章 個人編 女性の職業

幼稚園教諭として

門上 信子さん  八十歳(本町)

   ふたば幼稚園の歩み

 昭和四年五月一日、聞信寺[もんしんじ]住職であった父門上浄照[じょうしょう]が、農村家庭の利便を図るため、上富良野村農繁託児所楽児園を開いたのが始まりで、当時は経営主体を上富良野村とし、聞信寺を開放して四歳から学齢期までの幼児を対象に、村長吉田貞次郎氏が所長で保母は門上きよのと助手一名であった。
 昭和十五年七月八日、皇紀二千六百年を記念して皇后陛下よりご下賜の聖徳太子御尊像を、心の親、児童の守り本尊として安置した。同年十月「児童の季節保育に貢献し業績優秀なり」として恩賜財団愛育会(会長伯爵・清浦奎吾」より、選奨旗の授与と共に表彰を受けている。
 終戦後の昭和二十二年に楽児園を閉鎖したが、二十四年九月、村に移管し上富良野村立保育所として再開、五月から十月までの季節保育所であったが、二十七年に年間を通して開設する事となり、保母も門上信子、長谷部ソノ、谷口貞子、高坂房子、伊藤葉子、杉原留美子、久保美枝子が町職員として勤務した。時代の進歩と町の発展により、昭和三十九年に町立保育所が新設される事となり、聞信寺での町立保育所を解散した。
 その後、聞信寺三代住職となっていた夫の門上美義は、昭和四年以来の歴史と恩賜聖徳太子の御尊像を安置している意義を考え、境内に幼稚園設置を願い門徒総代の賛同を得て、広く町内にうったえ三十九年八月、菅野豊治[すがのとよじ]氏を会長に門上幼稚園設立委員会が組織され、町有志多数の協力と支援により十一月に園舎が完成した。四十年二月、宗教法人上富良野ふたば幼稚園として認可され、四月に開園式と第一回入園式を行った。理事長門上美義、園長菊地政美、主任門上信子、助教諭朝日テル子、三野淳子、助手谷口貞子、主事門上美義、園医卯月省三であった。四十一年には遊戯室を増築している。
 昭和五十五年、ふたば幼稚園開園十五周年を迎えPTA主催による表彰式、ビールパーティーなどの記念事業を行い、以後二十年を経て今日に至っている。
                        (以上町史より)

掲載省略:写真〜信子さんの父、門上浄照氏が上富良野村農繁期託児所を開いた。(昭和4年5月11日)

   追  憶

 私は大正五年十一月、現在の中町、大雄寺の近くで、門上浄照、ふじの夫婦の末娘として生まれ間もなく現在のところに来た。
 父は大の世話好きで、隣組や町の事に一生懸命になっており、十勝岳爆発の際には夜も寝ずに走り回り、当時草分にあった専誠寺まで堤灯をつけて様子を見に行き、渋江さんのところに置かれていた死体を寺の境内に運び、板囲いの小屋を作って安置した。首が無かったり、胴体が分かれたりした遺体は見るも無惨であった。各方面から救援隊が来て、国防婦人会の人達が炊き出しをしていたのを憶えている。
 以前から寺では、他から教師を招き和裁教室を開いていたが、父は「女子技芸学校」の看板を掲げ、講話や料理などを教えていた。大正十三年に母が病死し翌年次の母を迎えたが、その母は技芸学校が出来ないと言うので、そこで終わる事になった。
 その後父は十勝岳に「太子堂」を建てる計画をしていた。吹上温泉から旧噴火口へ向かう途中、少し沢を下りた所に小さな真水の池があり、その傍に掘っ建て小屋を作り、そこを拠点に仕事を進める考えの様であった。
 夏休みに三人(中一の兄、小五の姉、小三の私)で小屋の留守番に行った。夜は熊除けのため土間で焚火をし、夜が明けると、板を渡した道路伝いに旧噴火口まで行き、石や砂を掘って風呂を作り顔を洗ったり、日中はおさらい帳の勉強をして過ごしたが、雲の正体を知ったのもこの時で、目の前で山の中腹を白い霧が横切っていくのを見て「これが雲か……」と思った。山では色々な体験をして社会勉強をした。一週間が過ぎて山から下りる日は朝から雨で、帰り仕度(熊や狐に荒されない様に味噌、醤油など残ったものは土の中に埋める」をしているうちに午後になり、雨はドシャ降りになったが、電話もなく家に連絡する手立てもないので仕方なく、合羽[カッパ]を着て小屋を出た。十人牧場(現旭野)を過ぎる頃には暗くなり体の芯までずぶ濡れで、心細さに泣きたくなったが、和田さんのところまで来て街の灯りが見えた時にはホッとした。十八`の道を歩きやっとの思いで家に辿り着いたが、父は迎えに出てもくれなかった。私が親であれば、どんなにか心配して、途中まででも迎えに行ったと思うが……。
 その後、十勝岳の爆発により太子堂の建立は不可能になった。時代が悪かったのか、父の望み(技芸学校・太子堂)は実現せずに終り、この事は今も私には心残りで、女であるが故に父の遺志を継げなかった事を残念に思っている。しかし父は昭和の年代になってから十勝岳に、歌碑や句碑を建立した。
 この様な事で父は殆ど家にいる事がなく、暮しは決して楽ではなかったので、私も女学校時代には友達に教わり編物のアルバイトもした。

   保母の道へ

 私が保育園に係わる様になったのは昭和八年、十八歳の時で、その頃、開園当時から保母をしていた姉が嫁ぎ、他から頼んでいた。私は富良野高等女学校を卒業し、別の職業を希望していたが、当時は職業婦人という言葉さえなく、地元では役場か教員ぐらいで、都会に出なければ希望の職に就けない時代だったので、その事を父が許すはずもなく、止むを得ず保母の道に進む事になった。
 その頃の園は寺の本堂で、畳の間[ま]に滑り台やシーソを置いてあり、子供達は所狭しと走り回るので畳の傷みが早く、二、三年毎に表替えをしていた。
 朝七時から三時頃まで弁当持参で来ており、おやつは午前、午後にビスケットやマコロンなどを与えていた。数年前、当時の園児であった泉川さん(道庁勤務)が見えて、あの頃のおやつが美味しかったと懐かしんでおられたが、アルマイトのおやつ皿は、今なお使い続けられている。
 昭和十二年、支那事変が始まり、十六年には太平洋戦争に突入し日々その激しさを増す中で、保育園でも空襲に備えての避難訓練が始まり、境内に防空壕を作り、焼夷弾に見たてて発煙筒を焚いての訓練であった。保母の服装も、戦前は長着に袴であったが、戦時中は標準服(筒袖の上衣に下はモンペ)になりみんな着物を解いて作っていた。母の黒紋付きも標準服になり、戦歿者[せんぼつしゃ]の遺骨を出迎えたり村葬に参列する折に着用した。
 そうした中で昭和十六年、僧侶の資格を得ようと京都の本山へ勉強に行った。時局がら米を持参し、食事はお粥[かゆ]と大根の葉、それに六`の道を歩いて山に行き筍をとって来ておかずにすると言う毎日であったが、得度式[とくどしき]を受け僧侶として家の手助けをした。
 昭和二十二年に結婚し四女をもうけたが、子供を背負い、弁当を持たせて一緒に通園し、子育て中も休まず勤めた。小学生の頃にはPTAの役員もして、妻、母、主婦、保母そして僧侶の勤めもある中で、よくも体が動いたものだと思うが、今になってみれば楽しい思い出である。
 その子供達も、それぞれの課程を終えて自分の道を歩んでいるが、四人が在学中は入学式、学校祭、卒業式と欠かさず出席し、どんな学校なのかを必ず
見る事にしていた。札幌には園の勤めが終ってから出かけ最終列車で戻り、東京へは夜の飛行機で飛び翌日には帰って来て、園の勤めを休む事はなかった。
 昭和十四年頃と思うが、東中市街にあった真言宗のお寺を借りて、お寺の娘の寄谷[よりたに]安子さんと一緒に保育所を始めた、その後お寺が引っ越したので東中会館の二階に移ったが、これが東中保育所の前身であった。毎日五`の道を下駄履きで通い、鼻緒が切れて裸足で歩いた事もあり、水田の稲架[はさ]の蔭で小用を足した事もあったが、歩きながら稲の生育の様子や回りの観察も出来て、また良い社会勉強になった。

   時代が変わって

 『昔から見て今の子供はどうですか』と、よく聞かれるが、子供は環境に応じて自然に変わるので、ここがこう変わったと断言は出来ないが、一般的には、物を大事にしない。接ぎの当たったもの、古いものは着ない。美味しくないものは食べない。すぐ捨てる。この様な事が言えるかと思うが……。
 「真っ直ぐな子供にしてあげたい」「素直に育って欲しい」と願いながら園児と共に過ごす日々であるが、六十有余年の長い歳月を保母、教員としての道を歩み続けて来られた事を有難く思っている。

掲載省略:写真〜ふたば幼稚園、秋の遠足と親子写生会での信子さん右端(昭和63年9月6日)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子