第四章 個人編 女性の職業
美しい事≠ェ好きだから
大倉 才子さん 七十二歳(栄町)
美容師の道へ
大正十三年九月二日、九人きょうだいの三番目に生まれ、小さい時から美しい物を色々な形に表現する(考える、想像する、創る)事が好きだった私は小学校を卒業した年の十二月、旭川の北海道女子高等美容専門学校に入学しました。「これからは人として女としての行儀見習いと髪結の手職を身につけるのだから、先生の言う事をきいて辛抱するのだ」、両親のこの言葉に送られ上富良野を後にしましたがこれが私の親離れであり美容師のスタートでした。
学校と言っても始めは下働き兼見習生で、それからの三年間は苦難連続の歳月であり、涙の連夜でも
ありました。早く三年が過ぎて美容技術の指導を受ける身になりたいとの願望を胸に日夜頑張りました。見習いの仕事は早朝五時半起床に始まり、宿舎、校舎の掃除、炊事、洗濯と休む暇もなく、特に旭川の十二月、一月は、それは厳しい寒さで、今の様に整った建物ではなく昔ながらの大きな建物なので、台所も洗面所もカチカチに凍れ、泣く思いで仕事をしたものでした。手はアカギレ足は霜焼けで赤黒くなり、寒さと痛みに耐えながら、よく辛抱したものだと振り返ります。
数年前、NHKのテレビで「おしん」が放映され私は欠かさず見ていましたが、主人公のおしんと苦難時代の自分の姿がオーバーラップして、熱いものがこみ上げて来ました。
入学して半年程たち春の気配が感じられる頃、校舎屋上の物干台に上がり上富良野の方に向かっては、兄弟姉妹や両親への切ない思いで、多感な少女時代の感傷に一時を過ごす事も度々でした。
昭和十五年、時は支那事変の最中で市民生活にも色々な統制や規制が布[し]かれましたが、私は美容師への道を進み続け本科生となり、技術面でも先生に認められるようになって校外実習(市内の著名人の奥様方の所に出張して結髪等を行う)に出られる程になっていました。
その頃の美容界は、日本髪の型はこれ、洋髪の型はこれと言った固定観念があり、新しい感覚など通用しない封建性の強いところでした。私の目指すものは新しい美の創造でしたので、私なりの感覚で美しさを表現しようと、洋髪にして焼きゴテの使い方やウエーブの流れに工夫をこらし、その人の容姿を
美しく引き立たせるような髪型にと努めたので、お客様から好評を得て学校へは名指しの依頼が多くなり、先生の信頼度も高くなりました。
昭和十八年春、無事美容学校を卒業し美容師の認定を貰いましたが、更に新しい技術を求め、特にパーマネントウエーブに着目し、将来きっとパーマネントウエーブの時代になるのではと考え、学校に残り後輩の指導に当たりながら、その修得に励みました。
しかし大東亜戦争も激しさを増し、美容界への風当たりも強く、十九年になって校舎が軍より糧株[りょうまつ]倉庫として接収され閉校の運命となったのです。パーマネントは敵国の風俗であるから禁止との警察の通達を受けました。
美容室開店
昭和二十年八月の終戦により大きな転機が訪れ、勤めていた店の残務整理などを終えた翌年二月、八年数カ月ぶりに故郷上富良野に戻りました。早速開店をと、現在の錦町二丁目にあった葛本豆腐店の一隅をお借りしてバラ美容室を開店、パーマネントを主に新しい技術の店として出発しました。
当時パーマネントを行っている店は旭川で八軒、富良野で二軒という状況だったので、美瑛方面、富良野方面からもお客様があり、朝八時の開店前から外に並んでいる有様で閉店は十時過ぎでした。パーマネントの料金は三十六円だったと記憶していますが、それまでの「髪結い」の店から新しい「美容室」への転換は、珍しさもあり人々の関心をよびました。
翌二十二年秋、現在の店の隣にあった高畠薬局支店の店舗半分を借り受け、電気パーマ機二台、鏡二枚で妹の和子と二人で始めました。この辺は水質が悪いのと電力不足で苦労しましたが、特に電圧が一定でないためパーマ機の調整が難しく失敗も度々でした。中でも忘れられないのは近所のS病院の奥様がパーマをかけに来られた時の事、急に電圧が上がったためにロット三本分ぐらいの髪が根元からブッツ
リと焼き切れてしまいました。唯々うろたえる私に奥様は『失敗は誰にでもあること、失敗は成功のもとですよ。あなたが立派な美容師になってくれたらそれでいいのです。髪の毛は直ぐに生えて来ます……』と温かいお言葉を頂き、かえって私の方が慰められ励まされて、どんなに感謝したか知れません。先年、奥様は亡くなられましたが、この事は今も私の日々の糧となっています。このようにして多くのお客様に育てて頂いたからこそ今日ある事を思い感謝の念でいっぱいです。
時代の移り変わりと共に美容業界も大きく発展して新しい商品や技術が流行するようになり、私も遅れをとる事はできません。昭和二十三年、二十三歳の時、当時日本では有名校の東京山野高等美容学校に一年間の研修生として学び、その後も四年間継続して一カ月研修を受け、山野美容学校より師範講師の認定書を戴きました。その後現在のバラ美容室を新築し従業員も三人となり増々多忙になりました。
美容界へ
激しい時代の変革は美容界にも及び、その中で全国的に組合が誕生し、北海道でも各保健所単位に組織される事になり、昭和三十二年に富良野美容協会(富良野地方の組織)が結成されました。以後六十年までの二十年間、副会長、会長として務め、その間には北海道美容業組合(法人)理事長の推挙により全日本美容講師会員となり、講師会常任創作委員と言う大役を担い技術研究のためロンドン(イギリス)パリ(フランス)へ出かけ、十日間でしたが、各国の美容室を訪れ技術者と対話し見聞を広める事ができ、特にパリでのヘアカットの技術は勉強になりました。
また北海道美容業組合主催で毎年行われている、若手美容師の登竜門でもある全道美容技術選手権大会の審査員として、過去十五回審査に臨み、中でも昭和四十四年札幌市で開催の折には審査委員長として、その大役を果たした時の喜びは忘れられません。
掲載省略:写真〜全道美容選手権大会の審査に当たった折の才子さん、平成元年夏(中央正面向き)
振り返れば美容師としての苦しみや困難も幾多ありましたが、これまでには美容業界からの数々の受賞を始め平成三年九月、北海道知事より社会貢献賞を戴き、翌四年十一月には上富良野町長より、社会貢献による表彰を受けた事は、職業人として世に認めて頂いたものと受け止め、美容師になった事の喜びと共に誇りを感じ、亡き両親への孝行が出来たのではと思っています。
掲載省略:写真〜北海道社会貢献賞受賞祝賀会での才子さん(平成3年10月)
顧みて
昭和二十五年に結婚し一男一女に恵まれましたが、夫は税務署勤務で当時の富良野から夕張、岩見沢へと転勤になり単身赴任の生活、私は育児をしながら仕事を続けました。当時はお正月、お祭り、運動会は特にパーマのお客様が多く、また婚礼で出張も増え多忙に追われる毎日で、隣家の辻内さん(精米所)西野目さん(獣医)には子供達が随分お世話になりました。
その子供達も今では、それぞれ幸せな家庭を持ち孫も五人になり、息子は地元で歯科医院を開業し地域医療に貢献できればと頑張っています。
昭和二十一年、パーマネントの店を振り出しに五十年余、多くの皆様に足を運んで頂き好きな仕事に打ち込んで来ましたが、ご指導頂いた恩師鈴木サイ先生、そして私の元で働いてくれた数多くのスタッフの支えと、最大の理解者である夫の協力があった事に感謝し、これからも研究を重ね新しいスタイルを創りお届けできればと思っています。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子