第四章 個人編 女性の職業
助産婦を天職として
及川 綾子さん 八十四歳(錦町)
助産婦をめざして
明治四十五年三月十六日、鳥取県東伯郡中北条字江北で、父磯江貞治、母ゼンの三男一女の一人娘として生まれ七歳の時、両親と共に北海道に渡り現在の富良野市扇山の伯父の家に一時落ち着き、その後中富良野村吉井農場に土地を求めて移住した。
昭和五年三月富良野實科高等女学校を卒業し、小学校の裁縫科の正教員の免許状を取得したが、兄に「何か資格を取るとよいのでは」と勧められ、実は美容師になりたかったが「産婆」になるよう論されたのであった。
幸い兄が高知市に住んでいたので、兄を頼って高知市看護学校、産婆学校に入学し、三年後の昭和八年五月十五日看護婦試験に合格した。しかし、産婆試験は学説は受かったものの実地は受からなかったので再度京都市で勉強し、昭和九年四月三十日晴れて産婆試験に合格することか出来た。その後、京都市で二年、札幌市で二年間、産婆助手として修業してから旭川市の陸軍病院で看護婦として務めた。
花嫁修業のため看護婦を辞め、実家の中富良野村吉井農場で暮らしていたが、北海道米穀連合会に勤めていた及川忠夫と昭和十六年四月に結婚した。二年後には夫は出兵し帰国後、昭和二十五年から精米所を経営した。
産婆開業
主婦として暮らしていたが、昭和十七年警察署に開業届けを提出して、十八年産婆開業の看板を掲げた。その頃には、金子シナさん、相馬トラヨさん、谷口ツヤ子さんが開業していた。当時のお産料金は五円から十円程度であったと思うが(定かではない)この料金は、米一俵の値段と同じで、昭和二十年頃は六十円、二十一年は二百二十円、二十三年には七百円となり、産婆料金も米の値上げと共に上がっていった。しかし、戦後の不安定な生活が続く中で、産児制限もなく出産数も多い当時としては、産婆料の値上げはかなり負担のようであった。
掲載省略:写真〜助産婦免許証と教科書
当時の産婆の仕事は、まず妊婦が五カ月目に入ると診察をして胎児が正常位であることを確認した。農家の人の多くは一生懸命働かなけければならないので、産み月まで診察にはこなかった。逆子[さかご](普通とは逆に足の方が下になっている状態)の時は骨盤端位と言って、二回から三回は診察して、聴診器で胎児心音、胎動音、子宮雑音、大動脈音、腸雑音を聞き、確かめてからレオボルド方式といって手のひらをお腹に当て、胎児の位置を正常位になおし、一回では正常に戻らず何回も掛った事もあり、治した後は腹帯を少し強く巻くなどした。また、首にへその緒が巻きついている時などは内診しても分からず、その場合は胎児が下がらないので、強い陣痛があっても中々出なくて共に泣いた事もあった。本当にお産が終わるまでは安心出来ないのである。
後産は三十分以内に出るのが普通であるが、出て来ない場合には飛沢先生に来てもらい出してもらった。(医者は手を入れて出すが、産婆がすると違反なので出来ない)今は病院等に行って産むが、当時は皆家庭でお産をしたので遠い所では美瑛町御料、美馬牛阿波団体、旭野など、迎えに来たら夏は自転車、冬は馬橇に乗って行った。夜のお産が多く、迎えの時には湯タンボを用意して来てくれたので助かったが時には、お産で頭が一杯らしく湯タンボを用意してもらえず、寒い中を馬橇でゆられて行ったこともあった。
また、道中での会話で「何故、お産は夜が多いのか」とたずねられ「それは、あなた方が夜にいとなむから」と楽しい冗談話をしながら行ったこともあっ
た。初産の時は時間がかかり夜明けまでかったこともあった。
子宮口が全開になると「きばり」が来るが、すでにそういう状態になっている所へ行くとてんてこまいになり、消毒、湯沸かし、産着の準備、そしておむつを用意してもらっているうちに子宮口が全開、分娩になるが、中には中々生まれなく妊婦はもう駄目だと泣き出してしまい共に泣いたこともあった。臍帯[せいたい](へその緒の処置)してから後産にかかり、それから赤ちゃんをきれいにお湯で洗い、体重、身長を測定してから産着を着せ、お母さんの側に寝かせてあげると、とてもやさしくおだやかな表情になった。
第二子、第三子のお産になると、子宮口が早く全開し早く産まれる事が多いので、自転車で駆けつけると、家の前で家族の人が「早く、早く」と手を振っていて自分のつらい事などわすれて取り上げた事もあり、また、玄関に入るやいなや強い陣痛が来ていてあわてた事もあった。ちなみに、陣痛がとぎれとぎれの場合はゆっくりと用意をして、時を待つ。
中には、子を産むのは汚れると思うのか畳を二枚位はがしてのお産もあり「こんなことをしてはいけない、産後黴菌が入り熱が出たら大変だから」と説得したり、後産はトイレ(当時は外にあった)の横など人通りのない所に埋める様に指示もした。
産後三日目になると、母親の乳がはってくるので、温湿布して乳房、乳首などをよくもみほぐし乳が出る様にした。その後、体力の回復を見ながら一週間目には腰湯を便わして腹帯をしめなおし、子供には沐浴をさせた。
そんな中で三日目に往診してみると、乳がはっていないお母さんがいた。聞いてみると、ごはんと梅干しだけの食事とのこと。私が「これでは栄養が無く乳も出なくなる。三度三度の食事におつゆを飲む事」を勧めた。その家庭では「お嫁さんの実家ではなく、ここで産ませたので、お腹でもこわされたら
お嫁さんの実家に申し訳ないと思いそうしたのです」と言われ、「本当にすまない、昼から町へ行って魚を買って来て食べさせる」と言われた時のうれしかったことは今でも忘れられない。
また、本来ならば五分から三分と陣痛の起こる時間が縮まっていくが、体質的に弱い人は陣痛も充分でなく分娩が順調に行かず母子共に弱かった。
お産の時には出来るだけ旦那さんを部屋に入れて、奥さんの側で手を取らせ「そら、きぼって!」と声を掛け、共に励ましお産を楽にさせてあげる様心掛けた。
三十七年間を振り返って
この様にして、昭和五十五年頃迄続けていたが、血圧が高くなったので、夫が心配してくれて、私の知らない間に看板をはずしてしまい、その頃にはもう産科医院も出来ていた。
今になって思うと、自転車に乗りやっとのおもいで産婦の家に着き診察が終わって帰る時「先生、トウキビを持って行って下さい」と言われ、坂の登り降りが大変だと思い断ったものの帰る道々、楽に自転車が動くので「もらえば良かった」と後悔した事もあったが本当に苦しい事、楽しい事が沢山あった。
この年になって本当にうれしく思うのは、取り上げた子の中に町議になられた方もあり、その時は自分の子の様にうれしかった。また、今でも毎年年賀状は三人から頂いている。孫も二人看護婦になり、甥三人が医者になっており、こんなうれしいことはない。今は夫婦二人でゆっくり暮らしているが、助産婦は気力と体力が要求される職業であったと思うのである。
掲載省略:写真〜夫忠夫さんと孫、曾孫たちと自宅の庭先でくつろぐ綾子さん(平成8年9月12日)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子