第四章 個人編 女性の職業
我が旅路
植田 スミさん 八十歳(新町)
優しさと厳しさの中で育つ
大正五年三月二十八日、屯田の永山村にて男五人女四人の長女として生まれました。出生当時は未熟児で当時のみかん箱に入る程度、顔は湯呑茶碗にかくれる程で、祖父母は「育って呉れるか?」と疑問に思い乍ら育てていたとの事。小学校四年生までは体育も出来ず、朝会の折、最前列で緊張のためか貧血を起こし倒れる事も多かったとか。学年が進むに従い健康になり、小学校六年生卒業と同時に旭川市立北都高女本科四年制の受験を希望したところ、男の中の長女でもあり祖父が反対でした。然し私は「ジダンダ」を踏み、受験だけでもと許可して貰い、幸いにも合格通知を受けた時は、祖父も父母も喜び止むなく許可、約束通り入学する事が出来て汽車通学しました。時には朝寝のため列車に遅れそうになり、踏切りで列車を止めて機関車から引き上げて貰い遅刻を免れた事もありました。汽車通学三年頃から人並の身長と逐次健康になり、無事卒業することが出来ました。
当時の生家は祖父母、伯父伯母、父母、使用人二人、従妹一人の大家族でした。現在と異り祖父の権限も強く厳格そのもの、毎朝先祖の仏壇にお参りする習慣(三十分〜三十五分)祖父の読経、夜はその日の感謝とお参りを済まさねば食事が出来ない。又掃除にしても床が光っていなければならず、帯戸の桟[さん]にほこりが掛かっていたり、父の煙草、お茶の後始末が出来てないと必ず叱言[こごと]が出ました。と言うのも祖父が苦労してその頃の財を造った関係、何かと無駄をせぬように「早寝早起き三文の徳」「辛抱する木に金が成る」などの諺[ことわぎ]を教えられました。
私が卒業と同時に伯父達は分家、伯母も嫁ぎ、使用人等も分家をさせたので必然的に私も家事手伝い弟妹の世話を強いられました。生家は五代続く本家で父は公職を持つ身、来客も多い家庭で祖父母は月に二、三回はお寺参りをし、孫の私達も折りに触れて連れて行かされました。また親戚づき合いも多く忙しい日々を過ごしました。従って女学校卒業後は四カ月余り和裁、生花、茶道の稽古にも通わせて貰いました。
掲載省略:写真〜長男耕一さん、次男勝司さん、三男安弘さんとスミさん(昭和25年4月)
結婚・そして夫の死を乗り越えて
昭和十四年五月、父四十七歳で心臓麻痺にて急死。遺言ではありませんが、父の賛成の結婚でしたので、その暮れに植田耕作と結婚する事になりました。
主人は海軍二等機関兵曹で山城、八雲等の駆逐艦に乗組み遠洋航海に、また昭和九年の支那事変等に従軍し、体調を崩し横須賀海兵団にて兵役免除となり、その後、中川町役場吏員として勤務しましたが、軍隊の病気が起因し昭和二十二年三月、長男五歳、次男三歳、三男一歳の子を遺して此の世を去りました。従って昭和二十二年十一月に実弟の住む中士別町に身を寄せました。
戦後は「働かざる者は食うべからず」と言う風習があって、自分は食べなくても成長期の三人の子供を抱え途方にくれました。幸いにして父方の伯父達の計らいで商売でもと考えていた矢先、頼って来た実弟も二十三年五月、軍隊の冷えが起因で他界し、母に苦労かけるのが心苦しく、一時は子供を道連れになどと考えましたが、死を決するならどんな苦労でも出来る、漸く授かった子供「子供達は立派に育てます」と主人が此の世の最後の別れの時に口にした私の言葉、子供達の権利を母親として奪う事は出来ない。我が身にどんな苦労が伴うとも、子供の権利を守り育てねば母親の資格はない。考え直し「女は弱しされど母は強し」の生き方を選び、伯父達の好意を無にしながら誰にも頼らず、朝な夕な子供達の健やかを念じ、どんな苦労にも打ち勝つ事を決意しました。実弟の友の勧める温かい言葉に同意して、父が残してくれた教訓「若い時の苦労は買って出るもの」を思い出し、何事にも挑戦してと……。
教職への道
子供を連れての教職、指導法の研究、本をあさって読む、学校給食の準備等、幸いにして三男は校長先生が目を掛けて下さり晴天にはグランドで、雨天は教室に机をおいて頂き静かにする様に躾ました。日が経ち子供三人小学校に入学してからは貧しいながらも親子四人の生活、子供の成長に夢を託し乍ら四年三カ月、突然上富良野中学校から家庭科教師にと要請があり、昭和二十八年、計らずも中学校勤務となり、此の地に肩を寄せ合い暮らせる幸せをかみしめました。
然し赴任して驚いた事は、使用不能ミシン二台、調理では洋皿十六枚、鍋釜調理用具もない実情、担当は家庭科、音楽、書道の指導、止むなく五カ年計画を立てて校長先生に相談、予算がないの一点張りに仕方なく、聞信寺から大鍋を借り、お母様方の応援をいただき学校祭のバザーでカレーライスを出し収益十三万円得て、ミシン修理、一台購入した。その後、学校祭にバザーが恒例となり、図書費や楽器等に充てられ昭和四十年まで実施。男に伍して行く困難を味わう。また栄養学の資格取得のために、三十四年〜三十五年夏季講習を帯広畜産大学まで夜行をかけて受講したが、睡眠不足で倒れる一幕もありました。
紆余曲折を経ながら各々平面図を書き、実測しての給灯給排水の位置の希望を入れ、完成した時は我家を新築した如く嬉しく思ったものでした。落成式に関係機関、建設関係者をご招待の折、町教育長さんから「植田先生未亡人に七つも教室を作ってやった」と言われたので、すかさず私は「植田未亡人?私はカタツムリではありません」「可愛い町民の娘や孫達に作ったのだとお考えになったら鼻高々でしょう」とゼェスチャーを混じえ言った処、当時の豊田局長さんが「久保さん一本取られたね。現場の教師がこれ迄する者はいないよ」と言われた言葉が今も私の脳裏に焼きついています。
その後、体育館改築、校舎周辺整備と十二年間、地域住民共々に労力を惜しみなく働きました。バック幕、袖幕、演台掛け、ゼッケン縫い、芸能発表の服装作り(購入、染色仕立てまで)限りない思い出、ある時は生徒指導で山また山を日暮れかけての家庭訪問、思春期のコミュニケーションは言葉遣いまで、相手の気持ちを考えねば、教えると共に教えられる面も多く、地域の方々に依って自分を磨く原動力となりました。
小学校勤務
その後、上富良野小学校勤務を命ぜられ、生活部長としての大任、男女併せて八名の部下、年間計画生活指導全般の責任者、環境整備から避難訓練、交通指導まで、重点目標を週毎に設定実践し、或る時は古参のライバル意識を向きさらしにし、理に反する行動に出られた事も二度三度、然し理に反する行動なので無視したり取り合わなかったこともありました。
三年間の勤務時代には、管内の家庭科指導助言者の委嘱を受けて、研究会毎に助言者としての大役も果たせました。
昭和四十三年〜四十六年迄愛別協和小学校、昭和四十六年〜五十一年三月迄富良野市立麓郷小学校、両校共赴任早々、環境整備が重点目標に掲げなければならない校舎でした。従って校長先生と相談の結果、年間二万円の予算計上をお願いして実践し、赴
任早々は厳しい先生と異名を頂きましたが、麓郷中学校も見習いたいとの事で塗料の選択と、その後、手入法を伝授し校下の父兄に感謝されました。
教職に終止符・第二の人生へ
両校共に慣れるに従い、農村特有の人情細やかさと、子供達も純粋そのものであって教えられる面も多かったと言えます。中でも麓郷小学校の五年間の中で椎間板ヘルニアの大手術、稍[やや]半年、先生方にご迷惑を掛けた事、また自動車免許取得に挑戦した時、校長先生始め先生方が割当の様に送迎に携わって頂いたご恩、また教職二十七年に終止符を打とうとする時に、今一年勤務を延長しては?と望まれました事は身に余る幸せと生涯最高の宝として胸に刻み、自分の体も労る事を決意し、二十七年間の教職に終止符を打ちました。
「年金と子と過ごす幸、親に謝す」欠点の無い人間はなくすべからく良心あり、長所を如何に見い出しそれをどう導くか、教師の任務は大きなテクニックも必要である事を悟る。
退職後第二の人生、老後を模索する暇なく母子会の会長を引き継ぎ、社会に役立つ人間に、を考えた時、母子福祉に携わるのが我が宿命として、町内のみならず管内、全道を視野に入れて現在も活動を続けております。
※母子会については団体編にて記述しております。
掲載省略:写真〜文化の日に上富良野町社会貢献賞を受賞されたスミさん(昭和63年11月3日)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子