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第四章 個人編 女性の職業

母・娘・嫁・三代 美容業ひと筋七十年

庵本 はつゑさん 七十四歳(中町)

   「女かみゆい」としての母

 母タネエが「女かみゆい」の看板を掲げたのは昭和二年、現在の十勝ハイヤーさんの辺りで、その頃小泉さん、武山さんと言う髪結いがいたそうである。
 母は、もともと他人の髪をいじる事が好きであったが、髪結いを志したのは三十歳になってからで、東京の美髪学校に一年間学び資格を得たと言う努力家で、体格がよく、腕も確かで客の信望も厚く、仕事には厳しかったが心根の優しい人であった。
 姪の私を三歳の時に引き取り、小学校五年生になった時から仕事を教え一人前の髪結いに育て上げてくれた。

   修業時代


 十四歳の春、母の手先として髪結いの修業が始まった。その頃は自毛[じげ](自分の髪)で髷[まげ]を結うので髪の毛が長く、雲脂落[ふけおと]しに始まり下梳[したす]き(梳櫛[すきぐし]で髪を丁寧にすく)癖直[くせなお]し(お湯で浸して手で柔む)と、ひと通りの仕事に三十分はかかってしまうので、手のろいと母に叱られたが、口よりも手の方が先に来る事も度々であった。
 営業時間の制限もない時代で夜が忙しく、銭湯帰りの客などで夜半の一時二時にもなった。二十歳頃の事、棟続きで床屋をしていた兄の手伝いをしていた或る夜、立派な髭を貯えたお寺さんが「急用で明日でかけるので……」と見えられた。夜遅くであり、客は寝込み私も疲れていたのか遂うっかり大切な髭を剃り落としてしまい、客は「どうしてくれる」と息巻き兄には叱られ、死にたい思いをした大失敗もあった。
 当時は出髪[でがみ](客の家に出張する)が多く特に年末は、病院や旅館、料理屋からお呼びがかかり、暮れも正月もなく寝る時間も無い程であった。
 中通りは花街と言われ料理屋や旅館が多く芸者も大勢いたが、中には気に入らないと腹を立て、結ったばかりの髪を解[ほど]いてしまう人もいて気苦労も多かった。
 外見は華やかな芸者も蔭の苦労は大変なもので、主人に叩かれたりトイレに縛りつけられ、ヒーヒー泣いている声を何度となく耳にした。借金の形に満州に行った人もおり、その時に形見にと貰ったコンパクトは今も持っているが、後に無理が崇って亡くなり、アンベラ(アンベラと言う草の茎を打って編んだ敷物「アンベラ蓆[むしろ]」)に巻かれて捨てられたと人伝てに聞いた。
 様ざまな事情に縛られ、どんなに辛くても逃げ出す事も出来ない芸者の哀れな姿を垣間見て、切ない思いであった。

掲載省略:写真〜髪結いになって初めて花嫁をつくった母タネエさん(昭和2年頃)

  一人前になって

 二十四歳から結婚式などで外に出る様になり、迎えの馬橇で前日から出向き夜通しで、手伝いの近所のおばさん達みんなの髪を結い上げ、当日は朝早くから花嫁の仕度をした。その頃は農家から農家に嫁ぐ人が多く、結婚式も冬期間に集中し一日に四、五組はざらで、十三組と言う日もあったが、式の日取りも髪結いの都合を聞いて決めた程であった。
 冬は道中のハプニングも多く、或る時は日新の片倉さん宅で日新小学校に勤務されていた先生の結婚披露宴が行われ、その帰り道で馬橇が転覆し、引き出物の紅白の蒲鉾が雪の中に放り出されて見えなくなり、また或る時は、美馬牛から中富良野に向かう途中で箱馬橇がひっくり返って、柳樽の酒を被り花嫁がびしょ濡れになって泣き出すと言う事もあった。

   結  婚

 昭和十九年七月、サラリーマンの夫稲垣勲と結婚した。仕事の暇な時期を選んだので暑い最中[さなか]で、汗だくになって写真屋に着き、仲人が見かねて着物を
脱がせたりして楽にしてくれたのを覚えている。
 給料七十円の時代で結納金は百二十円、下駄を付けるのが仕来[しき]たりとの事で真夏だと言うのに雪下駄を貰った。嫁入り道具に三十円の箪笥を買って貰ったが、戦事中の為、夫の実家に疎開する途中に底が抜けたと、後になって仲人の守田さんに聞かされた。
 結婚後も母の店に通って仕事を続けたが、家庭との両立は難しく髪結いをやめようかと考えた事もあったが、その後、夫が病死し子供も亡くなったので止むなく続ける事になった。

   更なる修業

 戦後の混沌[こんとん]とした世の中が落ち着いて来て女性のファッションが変わり始め、髪型も手軽な洋髪、そしてパーマネントの時代になったので、昭和二十四年に東京の山野愛子美容学校に勉強に行った。
 当初は電気パーマで加減が難しく、火傷を負わせたり、髪の毛が焼き切れてしまい平謝りに謝ったり、パーマの最中に地震が来て、客を放り出して窓から飛び出ると言った失敗もあった。二十六年頃からコールドパーマになったが液で手が荒れ、十本の指が絆創膏だらけになった。
 昭和二十八年五月、母が肝臓癌で旭川の病院に入院となり、仕事は必然的に私の肩にかかって来た。その頃には花嫁の髷も鬘[かつら]になっていたが、一人一人の頭に合わせなければならないので難しく、たまたま旭川の美髪学校に、その道日本一と言われる大沼先生が来られると言うので勉強に行く事にした。木で作った重い鬘台と鬘を持って、三日間ではあったが母の看病をしながら汽車で通い、家に帰ってからも夜半まで練習を繰り返し、一晩に三回も結い直しをした。
 その年の十月、私が初めて自分で結った鬘の花嫁は井上家の娘さんで、病床の母に見せると「いいよ!」と褒[ほ]めてくれ、本当に嬉しかった事が忘れられない。

掲載省略:写真〜母の代から60年使用している日本髪用の櫛

   母を見送る

 入院六カ月後の十一月、母は五十七歳の若さで逝ってしまった。その一と月程前、白無垢姿の花嫁を作り見て貰うと、あと一週間もつかどうかと言う時であったが、身を起こしてしっかりと見て批評してくれ、いかに仕事を大事にしていたか、そして親の有り難さを思い知らされたのであった。
 母亡き後も、花嫁を作ると必ず「母さん、今日のお嫁さんはどう?」と仏壇に向かって呼びかけ、母に見て貰っている様な気がしていた。

   現在の美容院

 昭和二十九年に現在の所に移転したが、その後父が商売をすると言うので私は外に出る事にした。
 増屋ラーメン屋さんの所にあった長屋の一軒を借り、そこで四年間営業していたが、その間に父の商売が駄目になり、その上突然病気になったので止むなく父の許に戻ったが、三年後に父が亡くなり現在の「あんもと美容院」として営業を続ける事になった。

掲載省略:写真〜平成6年4月、札幌の中学校に入学する孫・泰士さんとはつゑさん

   美容ひと筋これからも

 十四歳から母の許で修業し、そして母の後を継ぎ美容ひと筋の人生であったが、花嫁を作り上げた時その親ごさんが「よく出来た」と喜んでくれる事が何よりも嬉しく、一人一人をどんな花嫁に作って上げようかと考えるのが楽しみで、仕事になると損も得も無く夢中になってしまうのであった。
 お蔭で、病気もせずに今日まで来れたのも母が護[まも]って呉れているからと思い、信心家であった母の為にと二度、四国巡礼に回らせて頂いた。
 今は、店の方は三代目の嫁に任せているが着付けだけは手伝っており、これからも体の続く限り三代目を支え、そして三代目にも、美容の道を歩み続けて行って欲しいと願っている。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子