第三章 団体編 女性の団体活動
女子青年団
女子青年団の始まりは昭和二年八月「大日本連合女子青年団発団」の支庁からの通達を受け、上富良野村女子青年団に統一されたが、それ以前は処女会と言う名称で、学校を中心とする各地域単位に組織されていた。
大正八年一月三日、創成小学校下の処女会が発会式をあげ、吉田貞次郎の発案で上富良野己末[みまい]処女会(「みのとひつじ」の年に誕生したので)と名付け会長は北常蔵(小学校長)が就任した。この外、東中処女会は会員七十三名、十三歳から結婚までの年齢構成で、現金六円の資産となっている。また支庁の調査によると東中の創立は大正七年一月十五日であるが、己未処女会が創立された大正八年当時、支庁管内にはまだ十一の処女会しかなかった。
大正十二年には嶋津処女会が生まれ、昭和二年に静修処女会が誕生し海老名ふじの・千葉春江の名が出ている。昭和二年以降は支庁及び道庁が指導者講習会を開き幹部を養成したが、この頃から単位団として里仁・江幌・不息(現旭野)の名が登場しており、江花女子青年団も同年四月に創立されている。
昭和五年、女子青年の公共生活訓練運動の推進を大日本連合女子青年団が指示した時、非常に難しい宣言や決議が送られて来ているが、上富良野では同団の中の「われらの誓い」によって指導した。
われらの誓い
一、神明を尊び皇室を敬いませう
二、時間を守り仕事の能率をあげませう
三、むだをはぶき物を大事に使いませう
四、国産品を愛用し輸入超過をふせぎませう
五、仲よく暮し平和の中心となりませう
昭和六年一月十七日には上川連合女子青年団長から「近時世運ノ進展ニ伴ヒ婦人公民権、婦人参政権等ノ要求熾烈ナルコトハ御承知ノ事ニ侯。女子青年ノ政治的知見ハ必要ノ儀ニ候ヘ共、修養団体タル女子青年団ニ於テ団体トシテハ選挙・其他政治ニ関スル實際運動に携ハルガ如キハ慎ムヲ要スル次第ニ之有」と政治運動に警告を発したのは注目される。
(以上町史抜粋)
その後各学校校下共に誕生し昭和二十年の終戦後男子青年と統合するまで存続していたが、その記録がないと言う事で、町史には江花女子青年団の活動記録が記されているが、女性史をつくる会では「日の出処女会・女子分団」の記録簿をお借りする事が出来たので、その内容に基き「女子青年団の活動の経緯」として主なものを掲載することとした。
日の出処女会
日の出処女会は昭和八年一月四日に創立されたがその先頭に立ったのは青年男子の和田松ヱ門・久野専一郎・長沼祥治・横山政一の諸氏であった。設立総会の出席者は十九名(処女十四名、来賓二名、男子三名)で、事業として、「野の花」(会報)講読、展覧会に創作及び廃物利用品の出品、出征軍人慰問が決定され、予算は収入(寄附金)十円。支出・野の花三円、備品費一円、雑費一円、創立総会費五円(菓子代)。その他、本村よりの出征軍人十八名に慰問状発送(十勝岳写真十八枚一円十銭、切手十八枚二十七銭)となっている。役員選挙では会長・副会長・会計・書記は男子が選ばれ幹事として山崎キミ・米谷喜久子・佐々木コト・稲垣ふじ・土井ハル・久野久子が選ばれ、二月七日に処女会創立報告書を役場に提出している。
以下年度毎に主な事項をあげてみると
昭和十年度
四月の総会で役員改選に当たり久野副会長は、今後の処女会は是非、自治統制をなす為、役員は正会員より選出する様に言い渡し選挙に入る。その結果、会長米谷喜久子・副会長西山タカノ・会計橋本タズ子・書記和田アキノに決定せり。然るに米谷喜久子は、会長の大任は我々の如き無経験者では到底果たし得ずとして辞意表せば副会長・会計・書記次々に辞す。久野氏会員に諮るが名案も出ず、止むを得ず会長和田氏の不在であれば六月の例会まで留会とする。
六月十五日午後四時、聞信寺に集合、久野氏四月の総会状況を和田会長に報告す。和田氏、米谷喜久子以下役員当選者に処女会の本質、今後の活動には自治統制でなければならぬ事を悟し受諾を勧むれど役員は挙りて現役員にて留任されるよう嘆願せる為今後一期間、現役員を以ってその任に当たる事を決定。(以上原文のまま)。
・実行組合幹部養成講習会五日間・小学校・一名
・生活改善講習会一週間・札幌市・一名・農村料理講習会二日間・小学校・十名
※昭和十一年「日の出女子分団」と改称する。
昭和十一年度
・農事組合青年幹部養成講習会五日間・美瑛村・一名
・天皇陛下御親閲・旭川市・三名
昭和十二年度
・農事組合幹部養成講習会五日間・山部村・一名
・団旗調整資金造成稲刈作業・団旗調整寄附金募
金・団旗作製・入魂式
・入営・出征兵士見送り十六回
昭和十三年度
・出征軍人遺家族慰問・出征軍人に慰問袋を送る。
・出征兵士見送り五回・戦死者遺骨出迎え・村葬
参列四回・帰還兵出迎え四回
昭和十四年度
・農事視察・美瑛・旭川・三十名
・出征兵士見送り七回・帰還兵出迎え六回・戦死
者遺骨出迎え・村葬参列三回
昭和十五年度
・旭川陸軍病院慰問
昭和十六年度記録なし
昭和十七年度−分団長以下役員全員女子となる。
・青年団演芸大会出演(二夜) 上富良野劇場
・八月一日神社参拝・大東亜戦争必勝祈願
・礼道講習会
・旭川師範学校援農部隊出迎え
・旭川陸軍病院慰問
・出征家族慰安演芸会
昭和十八年度
・応召家族援助の為女子勤労奉仕隊結成・出動
・国防献金街頭募金(百七拾六円六銭・役場へ)
・十勝岳登山・十三名
・洋裁講習会(作業服の作り方)
・体力章検定大会(二名合格)
・出征兵士見送り六回・戦死者遺骨出迎え・村葬 参列二回
・大東亜戦争完遂と出征勇士の武運長久祈願昭和十九年度
・青年記念日、鈴木中尉の時局講演・国民学校
・十二月八日大詔奉戴日・街頭行進・時局講演
・出征兵士見送り三回・戦死者遺骨出迎え 二回
昭和二十年度記録なし
昭和二十一年度以降は男子青年と合同の活動が多くなり、連合青年団主催の弁論大会、体育大会、演芸大会等に参加しているが、昭和二十四年三月二十五日「日の出青年団の発展運営を計る為、男女統合し会名を『日の出青年会』と称し役員改選並びに規約改正等を行う」と記されている。
歴代会長・分団長
和田松ヱ門・久野専一郎・田中美恵子・岡和田やす子・橋本テツ子・西山良子・岡和田久子・武山徳恵。
女子青年団活動の一例として、昭和十七年六月二十六日の旭川新聞に次のような記事が写真と共に掲載されている。
(以下新聞記事抜粋)
旭川師範生四十六名が上富良野へ土の援兵として二十日から六日間出動したが、同村の女子青年団員四十六名は、炊事は私達の手でと井上分団長以下六班に別れて奉仕を引き受けた。午前三時には学生部隊の宿舎上富良野国民学校に勢揃い、竃[かまど]を焚き御飯、味噌汁を作り学生達が床を蹴って飛び起きる五時半には食事の準備完了。
夕食の用意は午後二時半から始め、ぺこぺこに腹をすかして帰る学生達が夢中になってバクつくのを見れば、彼女達は疲れも忘れて更に明日の仕度にいそいそと取りかかるのである。
援農部隊と炊事女軍。皇国のために力を合わせる美しいものの姿である。
(町史編集資料より)
掲載省略:新聞紙面〜昭和17年6月26日旭川新聞記事
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子