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第二章 激動編 女性の戦中・戦後

私の戦時中と敗戦の思い出

和田 アキさん  七十六歳(日の出)

   女子青年団の思い出

 昔、小学校に青年訓練所と補修料(冬期間)が併置されていました。男子青年は小学校を卒業すると青年訓練所に入所し軍事訓練を磨き、女子青年は冬期間(十二月〜三月)補修料に入学、学科と裁縫の勉学にはげみました。
 私が小学校を卒業した十六歳の時、北海道を舞台にして、北海道七師団と青森弘前八師団対抗の陸軍特別大演習が行われました。大演習統監のため天皇陛下が北海道へ御巡幸なされました。旭川練兵場(七師団)にて、各町村の女子青年の拝謁が行われることになり、拝謁の予行演習が小学校校庭で学校
長指揮の下で幾日も続けられました。愈々当日、七師団練兵場には各町村の青年が大勢集合しました。女子青年は袴姿の正装でした。天皇陛下が玉座にお立ちになり、各町村毎に軍楽隊の音楽に合わせて分列行進を始めました。天皇陛下の前に来ると学校長の「頭右」の号令にて一斉に顔を陛下に向け、初めて拝顔しました。陛下は和やかに答礼をされました。無上の光栄と感激を覚えた事を生涯忘れません。
 結婚前の主人も現役兵として入隊、大演習に参加し、陛下のお顔を幾度も拝顔したとの事でしたが、日支事変が勃発したので大演習はこの年で終りました。その頃、主人は二カ年の現役を終え帰郷していましたが、翌年七師団に動員令下令赤紙の召集令状が来て満州へ出陣し、ノモンハンの激戦にてソ連の弾丸に射貫かれ死線を越えて故郷の家に帰還したのでした。
   結婚・出征・敗戦

 御縁があって昭和十七年三月、和田家の次男正治と結婚、主人は二十八歳、私は二十三歳でした。
 私は富原で小川総七、静の間に三男四女の四女として生まれ育ちましたが、二十歳の時に母が脳血栓で倒れ、お盆の十五日に四十九歳で亡くなり、当時私は家事を一手に引き受けていましたので仲々結婚に踏み切れずにおりましたが、仲人の梅田鉄次郎先生のお世話になり、その日を迎えました。
 主人は日の出、私は富原と、ほんの一`余りの所に住んでいながら、お互いの事も知らずに結婚式の日に初めて顔をみました。
 私達の結婚式は主人が国民服、私は普通の着物で記念写真も旅行もありませんでした。三月、堤灯をつけて、雪道を馬橇にゆられて嫁いできました。私は水田の娘で嫁ぎ先は畑作、その上澱粉工場と、馴れぬ作業で人知れぬ苦労をしました。
 私が嫁に来た時に、主人のお母さんから聞いた話ですが、お母さんが嫁に来た頃は、毎日荒地耕しの日暮らしの連続で何の楽しみもありませんでした。夫(二十四歳)が明治四十二年故郷の岐阜県から聞信寺住職門上浄照師を招き、西中(東一線北二十号)に説教所を建て仏法をひろめました。お母さんは祖母と、二十二号の北川さんの辺りからは道らしきものはない「ヨシ原」泥炭地の中の丸太を渡って二十号の説教所へお寺詣りをして、心を慰めて苦難に耐えたとの事でした。
 日本国は昭和十一年日支事変勃発、十六年には米英、オランダに宣戦布告、戦国の時代となりました。軍籍のある者は勿論、若い青年が大勢召集になり戦地へ出陣していきました。農村も男手不足で老人と婦人が苦労に耐えて銃後を守って頑張っていました。
 私も主人と結婚後一年間、共に本家の百姓を手伝い十七年十二月に分家させて頂き、十八年に長女を出産し、十九年には主人に三度目の赤紙(召集令状)が来て出征して行きました。長女を背負って大勢の村民の方々と「ホーム」で見送り別れましたが、悲痛な思いが致しました。
 農村は男手不足、私は早速、初めての馴れぬ「プラオ」を握り馬耕や其の他農作業を始めました。心身の苦痛と疲労が重なって、母乳が余る程出ていたものが半分位しか出なくなり、赤ん坊が夜中になると乳をせがみ泣きだすので、寝る時「カボチャ」の煮たのを二片程枕元に持ってきて置き、それを食べさせて母乳替りにして子育てをしました。可哀相な世となりました。勝たねばならぬと国民は頑張って来ましたが、昭和二十年八月十五日、陛下の玉音にて敗戦、戦争は終りました。

掲載省略:写真〜3度目の召集により出征する夫正治さんと長女恭子さんを抱いたアキさん(昭和19年8月)

   夫と一緒に今日まで
 二十年には東北、北海道は末曽有の大冷害大凶作に見舞われ、敗戦と同時に国民は「ドン底」に落ちました。十月には炭鉱方面から集団買出し部隊が列車に「ブラ下る」ようにして、上富良野駅に下車したのです。駅では警察が率いて、私の家から東方四`の農協澱粉工場に、真黒な集団買出し部隊が通って行くのを見て恐しいやら悲しい思いがしました。
 私達農家も、生活と営農物資は僅かな配給制になり、食糧も割当て供出になって、それに足りぬと自家食糧をけづって供出させられました。農家も僅かな米に「皮むき燕麦」を混ぜて常食、又芋を炊いて食べて空腹をしのぎ農作業に精出しました。大人も子供も哀れな生活が続きました。
 内地の大都市では空襲で廃墟[はいきょ]となりましたが、「国敗れて山河あり」国土は残りました。日本国民は苦難に耐えて国興しに血と汗を流して頑張ってきました。敗戦と同時に主人も軍籍を投げ捨てて裸一貫で帰郷し、百姓の第一歩を踏み出しました。私も主人について一諸に頑張りました。
 日本国も平和になり、私も人生七十年有余生きさせて頂き感謝の心で一杯です。過去の戦争を思い出す時、今は夢のような世になり有難く思います。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子