第二章 激動編 女性の戦中・戦後
私の戦争体験から
若佐 マサ子さん 七十五歳(錦町)
上富良野から広島へ
私は大正十年五月、父若佐小市、母アヤノの長女として上富良野村で生まれました。女ばかりの五人姉妹です。物心ついた頃には私の家は食料品、雑貨の店をしていました。祖父母、両親、妹達、叔父、住み込みの店員と、何時も十人以上の大家族でした。
昭和十六年結婚、翌十七年に商売をやめて父の郷里広島へ引っ越し、間もなく主人に召集令状が来て旭川の部隊へ入隊しました。その秋に北支へ出征し、二十一年無事帰還できました。
父は自分の健康のために広島の田舎へ入って農業をしたくて、梅林付きの農地を探してあちこち歩きましたが、仲々気に入る土地が見つかりませんでした。その頃、妹三人が女学生でしたので、あまり田舎へ入っては通学にも困るのではと、母や、父の妹達にも言われ、暫くは広島市に仮り住いする事になりました。そんな中、戦争も激しくなり、私も洋裁学校へ通っていたのを辞めて、陸軍被服廠[しょう](軍服等を作り各地へ配送したりしている所)の事務員として初めて勤めに出ました。
昭和十九年春、日本各地に空襲が始まり、広島も警報が鳴る様になりました。「四国の足擢岬[あしずりみさき]上空を敵機の編隊が北上中」とか「済州島上空を東方へ向って進行中」などラジオで放送されました。警戒警報が出ると遠くからでも、夜中でも、職場を守る為に駆け付けなくてはなりませんでした。勤務先が陸軍だった関係かと思います。被服廠の防空壕の中で不気味な空襲警報を聞いている時は、家族と一緒ならともかく、こんな所で死にたくないと淋しく悲惨な思いでした。
掲載省略:写真〜昭和19年広島県小学校校舎前で。家族と一緒に 後列左端マサ子さん
でもその頃、広島は爆撃されず殆ど軍港の呉市が狙われ、広島市では建物疎開が始まりました。空襲時の被害を少なく食い止める為と、家を壊して道幅を広げる為で、命令が出ると否応なく一週間以内に家を出なければなりませんでした。どんな立派な家でも対象になると柱に鋸を入れられ、梁にロープをしばって一気に壊してしまうのです。その後片付けには農家の方々が部落毎に奉仕に出ていました。
我が家には身体の弱い祖母と女子挺身隊に出ていて残業残業で休日もなく働き、結核になって自宅で寝ていた妹がいましたので、もし急に立退きを命ぜられては大変と十九年秋、親戚の農家で満州へ行き空家になっていた家があったので、そこに急きょ疎開する事になりました。しかし、その家にも又別の親戚が疎開して来ましたので、広い家でしたが、やはり気を使うので今度は父の生まれた村に引っ越しました。その村は広島市から二十`位の所で、昔からの宅地と畑が少し残してあった所に知り合いの大工さんを頼み、父母も手伝って粗末ながら家を建てて二十年の春に引っ越しました。
その後、母は過労で病気となり、妹も病気でしたので医者の証明をもらって私は勤めを辞めました。親戚の田圃を三反借りて初めて田植をしました。秋に収穫するまでは食糧に困り、着物や布団を農家へ持って行き、米や麦と交換してもらいました。東京大阪の大空襲が有り、南の島の敗戦のニュースなど嫌な状況となって来ました。
その頃、広島市には米軍機からビラが撒かれ「何月何日爆撃する」又「模範爆撃する」等と書いて有り、田舎に疎開して日中仕事で町へ出ていた人は始めはそれを信じて、その日は田舎から出ない様にしていましたが、度々はずれるのでデマだと思い信用しなくなりました。隣りの家に疎開していて、老人と子供を残して昼間、広島へ商売のために通勤していた奥さんは必ずビラで指示された日を守り、八月六日も田舎に居て助かりました。
昭和二十年八月六日
八月になり村の役場へ勤める事になって八月六日の朝、初出勤で村長さんの前で頭を下げて挨拶したとたん「ピカー!!ドーン」と言う凄い音に一同防空壕へ入りました。そのあと、広島市上空にもの凄い黒煙が上がり次第に広がりました。かなりの時間がたってからきのこ雲になりましたが、その様な凄い黒煙が上がるのは、ガス会社のタンクにでも命中したのだろうかと、いろいろ噂していました。その中、怪我人が送られて来るので駅前に救護所が設けられ、私も保健婦さんの指示に従って手伝う事になりました。初めに着いたのは国鉄の無蓋[むがい]貨車に一杯の怪我人でした。村の人ばかりでなく兵隊さんもおり、とにかく逃げて来たと言う感じでした。身体中ふくれあがった人、ガラスの破片で血だらけの人、火傷の人など悲惨なものでした。何処に爆弾が落ちたのですかと聞いても答えはまちまちで皆、自分の居た場所を言うのでした。
一発であの様な恐ろしいものがあるとは、その当時は分りませんでしたので疑問だらけでした。少したって大型爆弾と分り、原子爆弾と判ったのは数日後でした。
怪我人の手当てをする薬品類も少なく、火傷に塗る為に自分の家から食用油も持って行きました。暑い時でしたので、数日たって送られて来た人は傷口にウジがわいていました。無事に家に帰った人でも数日後になくなった人もいます。三、四日過ぎて父と妹が広島の親戚の安否を確かめる為、焼野原になった道を歩いて行くと、まだ収容されず虫の息の人々が「水を!!水が飲みたい」と呻[うめ]いていたそうです。本当に生き地獄だったと話してくれました。
我家では五女の妹が学徒動員で中国配電に行って原爆に遭いましたが、幸い郊外だったので、ガラスの破片で顔を少し切っただけでした。その上の妹は女子挺身隊で数カ月休みもなく家に帰れなかったが、八月五日に休暇がとれて家に帰って来ました。汽車の切符が買えず、二十`の道を歩いて帰り六日は家にいて無事でした。父も朝の涼しいうちに家を出て次女の妹(夫が戦死し家にいた)の荷物を運んでやりたいと前日から自転車やリヤカーの整備をしていたのですが、急きょ都合で行けなくなり田舎に居て無事でした。
わざわざその日に広島へ出て原爆に遭い命を落した人、運良く命拾いをした人、紙一重と言う事を痛感しました。広島で種々体験しましたが、とにかく戦争は怖いです。特に原子爆弾は絶対に止めるべきです。現在の日本が有難いと思うと同時に、世界中が一日も早く平和になりますよう祈りながら、私の体験記を終らせていただきます。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子