郷土をさぐる会トップページ        かみふらの女性史目次ページ

第二章 激動編 女性の戦中・戦後

激動の時代に生きて

若佐 トミさん  七十九歳(錦町)

   新潟から渡道

 新潟県三島郡脇野町上岩井で、父遠藤藤吉、母みせの間に四人きょうだい(二男二女)の長女として大正六年十一月三日に生まれ、生後三カ月ぐらいで父母に連れられ現在の錦町二丁目に来た。
 上富良野尋常小学校を卒業して、当時小学校の別棟にあった上富良野実習女学校に通い、和裁、洋裁それに国語、数学、歴史などを習い、二十歳まで、のんびりと過ごしていた。

   夫が召集されて

 昭和十三年一月十六日、夫若佐一司、二十七歳、私二十二歳で結婚、その後は富良野で、三人の子供にも恵まれ幸せな家庭生活を送っていたが、戦争が始まり、毎日のように日本全国から男達が召集されて行く中、まだまだ大丈夫と思っていた矢先の昭和十八年十月一日、夫に召集令状が届いた。「いつかは」と覚悟はしていたが何も考える余裕もなく、入隊までの短かい期間は唯[ただ]忙しい毎日で、大勢の人が出入りし、壮行会をしたり、千人針も多くの方々に縫ってもらい、どうにか出発の日に間に合った。
 夫は子供達(長男六歳、長女四歳、次男一歳)を残し、大勢の人に見送られて出征した。長男は、父親が出征して行った時の様子は記憶しているが、顔は「分かるかい」と聞くと「写真を見て分かるぐらい」と言い、長女と次男は全く憶えていない。その後戦争が激しくなったので十九年五月、上富良野の実家に母子四人で引っ越して来た。

   夫の戦死

 上富良野で生活を始め、夫の安否を気づかい無事を祈る毎日の中にも、時々現地からの手紙が届き元気な様子に安心していたが、昭和二十年六月の或る日、わたしが澱粉飴を作っているところへ役場の小使いさんが一枚の紙を持って来られ、これが戦死の訃報で『昭和十九年七月十八日、サイパン島で死亡』とだけ書いてあった。余りにも突然の報せに頭の中が真っ白になり、何を聞いたのか分からなかった。
 元気でいるものとばかり思っていた夫は一年も前に戦死していたのであった。最初の部隊からサイパン島に移動して戦闘に加わり、僅か十カ月で異国の地において玉砕し、夫は三十三歳の短い生涯を終えたのであった。
 終戦後、金子村長が戦死者の遺族を集め、上富良野小学校運動場で村葬をして下さったが、一家の大黒柱を失った悲しみと、改めて三人の子供を育てて行かなければならない責任を感じたのであった。

   和裁とともに

 昭和二十二年八月現在地に移り、生計をたてる為に、家にいて出来る仕事をと考え、娘時代に身につけていた和裁の仕立てをボツボツと始めた。
 そのうちに四、五人から教えて欲しいと頼まれ、夜間は小人数であったが昼間は二十人余りにもなり呉服物も序々に出回わる様になって仕立ての仕事も多くなって来た。
 生徒には私なりの教え方で、新聞紙を折ってヒナ形を作り袖[そで]・身頃[みごろ]・衽[おくみ]・衿[えり]・一ツ身[ひとつみ]・四ツ身[よつみ]・本裁[ほんだ]ちと言うように、基礎を第一に教えたが、生徒も心得て、自分の縫い方が悪いと思った時には縫い直しを覚悟して、鋏[はさみ]を持って見せに来た。
 厳しい先生と言われたが、針供養の日、また折々には材料を持ち寄って、まんじゅう、いも汁粉、巻ずしなどを作ったり、時には親にも話せない事を相談されたりと、和裁を通して慕ってくれた生徒達と共に、楽しい日々を過ごしたのであった。

掲載省略:写真〜昭和23年3月、修業式の日に自分で仕立てた着物を着た生徒達に囲まれて前列中央トミさん

 夏は浴衣などの仕立てが多く、冬は時期的に寝る暇もないほど忙しかった。子供の着る物は総べて自分で仕立てたが、お盆が過ぎなければその暇がないので、仕立てる時には大きめに作り「袋を着ているようだ」と笑われたが、次の年には丁度合う様になっていた。
 その頃の月謝は百円ぐらいだったと思うがすべて子供の学費や生活費にと消え、一番困っていた時に恩給制度や遺族年金もなく本当に辛い時代を送った。

   母子会活動

 いろいろな事情で父親のいない家庭を対象として三十年五月、上富良野母子会が設立されて私も会員となり、母子共々、慰安旅行などに楽しく参加していたが、その後会長として関わる事になって外に出る機会も多くなり、子供達には淋しい思いをさせたが、実家が近かったので何かと面倒を見て貰い本当に助けられた。
 みんな同じ様な境遇の中で生活していたが、私以上に苦労している人達のために少しでも手助けが出来るならばと、無我夢中で活動を続けて来た中で、昭和五十三年七月、上川支庁地区社会福祉協議会会長より表彰され、感謝の気拝で一ばいであった。

   遺族会活動

 全国に先駆け北海道の遺族会が設立され、昭和二十一年四月一日、上富良野でも遺族会を結成した。子供達が高校を卒業するまで役を受ける事は出来ないと断っていたが、後に班長として活動する様になり、四十三年には三代目の婦人部長を任され、抱えている課題に取り組んだ。その頃には全国的に婦人部が結成されており、私達も組織活動として遺族年金、国債、恩給制度の実現に向けての運動に参加する事になった。
 昭和二十八年に初めて遺族年金が国債証券で、戦死者に対して弔慰金裁定通知書が届き、五万円を十年分割とし、年額五千六百四十円を一時金として受取った。三十九年一月三十一日に特別給付金支給法が制定され、さらに四十一年には恩給が支給される様になって、生活して行く上で本当に助かり、有難い事だと思った。

掲載省略:写真〜昭和27年に発行された遺族国庫債券

 現在も婦人部の全道大会は毎年開かれており、恩給の増額等についての話し合いの場となっている。私も長い間活動を続けて来たお蔭で、昭和五十七年に次いで平成七年にも北海道知事より個人表彰を受けたが、この賞は、共に手をつなぎ頑張って来た仲間の絆と協力があっての事と感謝し、私はその代表として頂いたものと思っている。
 しかし、その仲間も高齢で病弱になり、現在では十人ぐらいになってしまい、私自身も高齢になったが、今なお副会長、婦人部長として活動を続けているところである。

   振り返って

 母子四人、精いっぱい生きて来たあの頃を振り返ると、子供の躾は本当に厳しく育てたと思う。毎日の習慣として、夕食後は絶対に外で遊ばせなかったが、ある時、近所の子供達が楽しそうに遊んでいるのを、窓から顔を出して眺めている姿を見て、余りにも可哀想になり「三十分ぐらいなら遊んで来てもいいよ」と許した事もあった。
 風呂から上がったらすぐ寝かせる様にして、脱いだ洋服はきちんと畳み風呂敷に包んでおく事、朝起きると、今度は寝巻を包んでおくようにと習慣づけて、すべて自分の事は自分でさせていた。薪割りなどもさせたが、子供達は不平も言わず良く家の手伝いをしてくれた。
 毎日、仕立ての仕事に追われ子供の世話も充分にしてやれなかったが、横道にもそれず心豊かに成長してくれたのが何より嬉しい事であり、夫には心の中で、私の役割は終ったと報告している。
 今、子供達もそれぞれ人の子の親となって幸せな家庭を築いているが、長男が会社の中堅幹部の研修でサイパン島に行った折に現地で撮った写真を見ると、戦場跡地は今なお、大砲や病院等も潰れたまま当時の悲惨な姿で残っており、その写真を見るにつけ、また切なる思いがこみ上げて来る……。
 和裁の仕事は七十歳まで続け、振り返る暇もなく過ごして来たが、気が付いてみると私も八十歳。戦後五十年を過ぎ、正に激動の時代を生きて来たが、今は子供や孫達に囲まれ本当に幸せであり、このままで自分の一生を送りたいと願うのみである。
 今、戦争の記憶も薄れて行く中で、同じ過ちを二度と繰り返す事のない様に願いつつ、二十一世紀に向かい、平和な日本を次世代に語り伝えて行きたいと思っている。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子