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第二章 激動編 女性の戦中・戦後

樺太から上富良野に引き揚げて

丸藤 キエさん  八十三歳(新 町)

 私は大正二年十月十八日に、当時樺太の恵須取[えすとる]で漁業の網元をしていた青森県出身の高橋福三・ミヨの間に五人兄弟の長女として生まれました。
 大正九年四月、泊居[とまりおる]小学校に入学しました。小さい時から働く事が好きで良く家の手伝いをし、また勉強も大好きでした。娘盛りまで家業を手伝いながら、自分でも女性としての習い事に励んでいました。
 昭和九年十月七日、当時、夏は土木建築、冬は造材請負をしていた丸藤万蔵、ナツの五男正[ただし]と結婚、その後の昭和十二年四月一日、夫は泊居役場に勤務しました。同年四月、長女蓉子が生まれ、十五年九月に次女麗子、十八年十一月には三女繁子が生まれました。

   戦中戦後の樺太

 日本は昭和十六年十二月八日、第二次世界大戦に入り、それはそれは大変な時代でした。しかしながら泊居は、昭和二十年八月九日ソ連軍の参戦までは空襲もなく、日本本土とは異なり物も豊富で幸福な日々を送っていました。ソ連軍の参戦により正に天国から地獄へと一気に落ちた感じでした。
 八月十五日の終戦以降もソ連軍は攻撃し、特に八月二十日の真岡[まおか]攻撃は日本人に大変な悲劇をもたらしました。戦いも終わって徐々に落ち着きを取り戻してきましたが、その後、ソ連軍の進駐、ソ連国民の入国、日本人の引き揚げ等が始まりました。
 我が家も何時引き揚げの日が来るか分からない侭準備をしました。姑がクッキーを作り、子供達には丸帯でリュックサックを作り、それぞれの品物を入れさせました。日本人が引き揚げて行った後の土地や家、家財道具の総べてはソ連人に接収されました。夫はソ連の沿岸警備の仕事を命ぜられ、ソ連兵に使われていました。

   引き揚げ

 日本本土も少しは落ち着きを取り戻し、引き揚げが始まりました。泊居にいた人も次々に帰国が許されて、私達一家も昭和二十二年九月一日、初秋の風が立ち始めた頃、住み馴れた故郷を、数少なくなった親戚、知人に見送られ真岡に向かって出発しました。胃潰瘍の痛みを胃散で抑えながら同行する七十二歳の姑ナツ、十歳の蓉子、七歳の麗子、四歳の繁子、しかも私は妊娠八カ月の身重の体を押しての引き揚げでした。
 真岡までの旅の途中、数カ所の鉄橋がソ連軍によって壊されており、私達は歩いて山を越え谷を越え列車に乗り継いで、やっとの思いで到着しました。真岡は全樺太から集まった引き揚げ者で埋まっていました。港の見える丘の上の収容所(旧小学校、女学校の校舎)から、みんなが海を眺めながら一日千秋の思いで引き揚げ船を待っていました。そして九月二十七日、やっと私達は帰国船新興丸に乗船することが出来ました。
 九月三十日、不安と期待をもった日本の国、函館港に着きました。無縁故者で知らない土地に入植して開墾するか、縁者を頼って行くかで大変迷ったあげく、夫の郷里である上富良野に行く事にしました。
 函館駅で赤ちゃんをおぶった若いご婦人が「いかめし」を売りに来ました。そして私達家族に「ご苦労さまでした」と言って、いかめしを差し出してくれました。不安一杯で辿り着いた日本の国の温かさが身にしみました。

   上富良野での生活

 十月三日、上富良野駅に到着、夫の姉の佐藤民[たみ]さんのお世話を受ける事になりました。姉夫婦は大変優しく迎えてくれ、家の離れに一部屋を作り二年間お世話になりました。
 無事到着の喜びも束の間、それはそれは毎日が大変な暮しでした。泊居を出発して上富良野に到着するまでの苦労は筆舌に表わす事は出来ませんが、家族がいたからこそ耐えられた事と感謝しています。しかし苦労はまだまだ続くのです。十一月九日、待望の長男和彦[かずひこ]が誕生しましたが、夫は定職もなく拾い仕事をしながらの生活でした。
 昭和二十三年五月十四日、夫が上富良野郵便局に採用になり、保険業務一筋に働かせて頂きました。その年の秋、基線二十二号の集会所の管理人として入居し、冬は屋根の雪降ろしにロープも付けずに屋根に上り、なだれの様に流され子供達にも心配かけました。
 近所の久保春吉様ご夫妻には大変お世話になり、近くの線路用地を耕し芋、南瓜、豆等、食べられるものは何でも植えました。配給物資の乏しい中、ランプの火屋[ほや]みがきは手が小さい子、ポンプの水汲みは大きい子、一升びんで玄米を搗[つ]くのは何時も姑でした。ルンペンストーブにくべる薪一本でも当時としては大切でした。
 風呂もなかった我が家では、河村郵便局長の計らいで局の横にあった共同風呂を使わせて貰い、また市街の風呂屋さんまでは、二`の道程を三十分かけて行かなければなりませんでした。冬は夜空の北斗七星を仰ぎ見ながら帰ったのも懐しい思い出です。
 クリスマスの思い出は東中の高橋寅吉さん(当時局長代理)が各家庭を回って子供達にプレゼントを配ってくれたり、親でさえ仲々できない時代でしたから子供達は大喜びしたものです。また舞台を作り家族の者を演芸で楽しませてくれたりもしました。
 河村局長さんは富原地区に広大な地所があり、局員の家族が区画して借り受け穀物、野菜を作りました。その畑の中心には大きな栗の木があり、いつもその木の下で弁当を広げたものでした。収穫の秋には夫の自転車にリヤカーを付けて荷物を積み、その上に子供四人を乗せて島津まで帰りました。
 夏は出面に北野さん、谷さん、吉野さん、久保さん宅などへ行き田植えや草取りをし、稲刈りなどは月あかりで遅くまで手伝いをしました。慣れない仕事を続けたため健康を害し、飛沢医院に入退院をくり返しました。冬は豆選[まめよ]りでひどい「療症[ひょうそ]」になったりもしました。

掲載省略:写真〜キエさんの退院を記念して家族一同(昭和29年8月頃)

   幸せな日々を過ごして

 朝鮮戦争により日本の景気も食糧難も、だんだんと良くなって来た昭和二十五年の六月二十五日、姑が、当時としては長寿の七十五歳でこの世をさりました。終戦からこれまでの生活は並大抵のものではありませんでしたが、世間一般も戦後の混乱期で物資に乏しく食糧難でしたので、何とか切り抜けることが出来ました。それにしても夫も私も只真面目に働いたお蔭と思います。夫は昭和四十六年四月三日に退職するまで、数え切れない程の賞を戴きました。
 昭和六十二年五月九日に夫が死亡し悲しい辛い日々を送りましたが、幸いにも次女一家と同居する事になり、孫六人、會孫も六人になって、今では何不自由なく暮し、週一度はディサービスセンターに連れて行って貰って楽しい日々を過ごしています。長生きをして今の幸せを有難く思います。
 世界からも戦争がなくなり、日本のこの平和がいつまでも続く事を願いつつ筆をおきます。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子