郷土をさぐる会トップページ        かみふらの女性史目次ページ

第二章 激動編 女性の戦中・戦後

従軍看護婦を志した姉の思い出

前川 千代子さん  七十五歳(島津)

   看護婦に青春をかけて

 私達姉妹は十人牧場(旭野)で、父道井太十郎と母トラの間に、九人きょうだいの四、五女として生まれ育ちました。
 亡き姉、光子が従軍看護婦を志したのは今から六十年も前の事になりますが、昭和十三年十一月の或る日、新聞で「日赤病院で看護婦募集」の記事が目に止まりました。看護婦が足りない為に臨時募集があったのです。戦時中(日中戦争)の事で、何か役に立つ仕事をしたいと考えていた姉は、その時に看護婦になろうと決心したのでした。
 早速両親の了解を得て当時、旭野尋常小学校の校
長であった佐々木作治先生に受験の為の指導をお願いし、先生も忙しい中をお引き受け下さって、放課後に受験勉強を教えて戴く事になった姉は、それからの毎日、学校の教員室に通う身となりました。家が近く、学校前の道路一本隔てた真向かいでしたので、姉は希望に溢れて、毎日が真剣そのものだったたと思います。
 十二月初めの受験の日から合格通知が来るまでは「若し落ちたら、来年は二人で受験しようね」と話しながら待ちました。十二月半ばになって合格通知が届いた時は道井家恒例の大掃除の最中で、いつもの様に父が先頭に立って家族みんなでしていましたが、通知を受けて飛び上がって喜んだのは私の方でした。お蔭で次年の私の受験は流れてしまいましたが、この時の嬉しさは今でも忘れられず、姉が合格できたのは佐々木先生のお力の賜と、両親や姉に代わってお礼を言いたい気持ちでいっぱいですが、多分、他界されていると思い、せめて天国に居られる先生に、この気持ちが届いて欲しいと願うのみです。
 先生の奥様も気さくな方で「こんにちはー」と声が聞えた時には家の中に上がっていると言う、農家の私達にも分け隔てなく接して下さり、野菜作りのコヤシかつぎ(糞尿を桶に汲んで担いで運び畑に撤いて肥料にする)なども、モンペをはいて手伝っておられました。
 学校の運動会なども部落総出で行われ、青年団の出番も多くあり私達もよく参加しましたが、私は姉達よりも背が高かったので奥様は、コンパスが長いから早いのだと母に言っておられたと聞きましたが、佐々木先生がおられた時期は青年団をも色々と指導して下さり、本当に楽しい青春時代を過ごしました。

   志半ばにして

 姉は当時の高等科しか出ていなかったので、看護科に入ってからも女学校出の人が大部分であり、みんなについて行くのが大変だったようです。人の倍も勉強しなければならず、自分の身をかまう暇も無かったと見えてヒビだらけの手になり「道井、随分ひどい手をしているな」と言って、教官がミカンの皮でクリームを作って下さったと言っていました。級も臨時募集のため、北海道のあちこちから集まって来ており年齢もまちまちの様でした。
 戦時中であり当然の事ながら、戦地で病を得て止むなく内地に帰され療養している軍人も、今の様に良い薬も無いままに亡くなられる方が多いと聞きました。当時は結核患者が多く、看護に当たる人達にも感染したり、その上、過労も重なって病気になると言う事があった様ですが、姉達のクラスでも、三年生になってから姉とクラスメートの小西さんが病に罹り同じ病室に入って居りました。

掲載省略:写真〜念願の看護婦となった制服姿の道丼光子さん(昭和14年頃)

 昭和十五年の八月一日、上富良野のお祭りの日に、旭野尋常小学校の同級生であった中の沢の手塚カナエさんが見舞いに行って下さるとの事でしたが、当時はバスも無く、ハイヤーは一軒だけ角家さんと言う方がいましたが電話も無いので呼ぶ事もできず、六`の道を歩いて駅まで出て汽車で旭川へ、そして日赤病院と、暑い中ご苦労をかけたのでした。
 その時はまだ元気でしたが、間もなく病気が悪化して母が付添いに行く事になりました。農家は夏作の取り入れで忙しい盛りでしたので私は見舞いに行
く事もならず、九月九日に死去の電報が届いた時は唯々唖然としたものです。
 葬式も日赤病院でして下さり、父母と兄だけが行き私は死顔も見なかったので実感がわかず、しばらくしてから思いきり泣きました。葬式が終わり、母の胸に抱かれて白い布に包まれたお骨だけが帰って来ました。
 姉も、志半ばにして死んで行かなければならなかった運命を、どんなにか悔しく心残りだったと思います。悔んでも仕方のない事なのですが、もう少し早く今の様な良い薬が出来ていればと、唯々残念でなりません。後で母に聞いた話では担当の先生が「小西さんと同室させなければよかった」と言っておられたとの事でしたが、これも運命、致し方のない事と諦めるしかありません。

   姉の面影を偲んで

 級長の川手春代様の弔辞やアルバムも残してあったのですが、実家が札幌へ出る際に処分したものと諦めていたところ最近になって、実家の甥のところにアルバムが有るとの事で早速送って貰い、思いがけなく在り日の姉の姿に触れて、懐かしく当時を思い起こしております。
 日赤の看護婦の制服は、外出の時は紺のワンピースで襟に日赤のバッジが付いており、帽子は後部に蝶結びの飾りがついた同じ紺色でした。白衣は沢山のヒダがあり襟は詰襟[つめえり]で、帽子は髪の毛が全部覆われる、ヒダのある前中心に赤十字のマークの付いた前高な、今では見られない帽子でした。
 三年の中頃になって看護婦心得になれば給料も頂けた様で、給料を貰って何かを作るのを楽しみにしていましたのに、返す返すも、残念でたまりません。

掲載省略:写真〜野戦病院勤務のため、戦地に赴任した日本赤十字従軍看護婦(昭和14年頃)

   偶然にも……

 お国の為にと従軍看護婦を目指した姉は、その志を遂げる事なく亡くなり、私も、その望みは叶えられませんでしたが、偶然にも私の二女が看護婦になり、東旭川の国保病院に数年間勤務していました。
 病院の閉鎖により旭川市立病院に収容され給食関係の仕事に携わっていましたが、現在は市の福祉施設「緑風苑」に勤めており、今また孫が看護学校で正看コースの勉強中で、来春、国家試験にパスすれば、看護婦として働く事が出来るのを楽しみに「体だけは大事にしてね」と応援している此の頃です。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子