第二章 激動編 女性の戦中・戦後
援農学徒を受け入れて
田中 久さん 九十三歳(島津)
島津農場へ入植
明治三十六年五月二十四日、富山県日詰郡早川村で、父斉藤喜太郎、母オトの二男四女の長女として生まれた。大正五年三月二十九日、十四歳の時、家族揃って母の義兄・有坂佐太郎さんを頼って渡道した。岩見沢市に一夏いて、十一月に西一線北二十二号の島津農場へ小作人として入植した。
そこは荒れ地で鍬で開墾するのも大変で、それだけでは生計が立たないので両親は出面にも出掛け、私は幼い弟妹の面倒を見ながら家事の手伝いや野良仕事をして、冬は大雄寺住職の奥さんに裁縫を二カ月間習いながら過ごしていた。
大正九年十一月、十七歳の時、細川與三郎さんのお世話で、島津の田中庄蔵と結婚した。嫁入り仕度は箪笥二棹の着物それに雪下駄を持っていった。この年は天候不順で収穫が遅れていたので結婚式後に家族で稲刈りをした。その時、姑が鎌で足を切ったが、その痛みが感じられない程寒さが強かった。
泥 流
大正十五年五月、十勝岳が大爆発した。泥流が流れて来ると言うので、私達は米を納屋の梁の上に上げて、基線道路を渡って線路の方に逃げた。泥流がおさまった頃家に戻ると、家、納屋は被害をまぬがれたが、泥流が一町五反の田圃一面に溜まっていた。その後、復旧作業は朝鮮の人達の手で四尺から五尺もの土を取り除いたが、二年から三年は米がほとんど取れなかったので大変苦しかった。
その時、流れついた石は「記念の石」 として今も玄関の前に置いてある。
入 営
分家をして新宅生活であったが、私達は子供に恵まれなかったので、伯父佐原長松の息子で十七歳の清一と養子縁組をさせてもらい四年間一緒に暮らしていたが、昭和十六年、清一・二十一歳の時、兵隊検査に合格した。それからと言うものは、千人針を縫ってもらうために一人ひとり訪ね歩き島津、市街地、お寺参りの人達に頼みどうにか入営に間にあった。
千人針の布を胴に巻き、必勝の寄せ書きを皆さんに書いてもらい、のぼりは村から頂き神社で祈願をして、家では地域の人、親戚などを招き送別会をして旭川に入営した。旭川で教育されて激戦地に行く事になった。
生きて帰って来る様願っていたが、その甲斐もなく二十二歳の時(陸軍伍長)ガタルカナル島で戦死した。昭和十七年八月二十一日に、国から功七級金鵄勲章[きんしくんしょう]、勲八等白色桐葉章[くんはっとうはくしょくとうようしょう]を頂いた。この日を死亡した日にしている。その時国から頂いたお金の半分は、形見分けとして清一の生みの親に差し上げた。
掲載省略:写真〜昭和16年、21歳で入営した清一さん(翌年戦死)
援農隊
「学徒勤労動員法」が昭和十八年に施行され、働き手のない家を優先的に援助することを目的として、私の家にも大勢の援農隊が来てくれた。その人達は栃木県、長野県、函館などの学生で二カ月おきに交替で二、三人一組になって来ていた。
仕事は、田植え、除草機転がし、稲刈りの手伝いをしてもらった。除草機転がしは、一通り終わる頃には先にした所はもう草が生え、手で取る以外に方法もなく本当に苦労している様であった。
援農隊は、十五歳から十七歳位の人達で朝早くから夜遅くまで働いてもらい、休みは午前と午後に三十分位であった。中には学業は優秀であるが田圃では働かない人もいて、もう少し働いてほしいと言いながら働いてもらった。
合宿所からかよってくる人達もいたが、私の家では皆家に寝泊まりをしてもらい家族の一員であった。育ち盛りなのでご飯はすぐに底をつく毎日であった
が、皆んなに一生懸命働いてもらい大変たすかった。いよいよ仕事が終わって帰る時には、何もあげるものがないのでお土産にりんごや身欠にしんなどをあげた。
また、運動会や町のお祭りには、自分の子供のように小遣いをあげて大変喜ばれた思い出が残っている。神社の相撲大会に出て優勝した人もおり、馬がいたので暇をみて乗馬の練習などをしていた。
その後、この人達とは年賀状をやり取りしたり、夫婦で来訪して頂いたりもした。
再 会
その中で、長野県から来た十六歳の濱澤少年が我家に来てくれた。彼は三カ月間働いた後に郷里に帰ることになり、別れの日に満足な食べ物がなかったので、雪下駄を「私がお嫁に来る時に持ってきました。一度も履かずにいるので、濱澤さんがお嫁さんを貰ったら履いてもらって下さい」と言って土産に渡したが、記念にと大切に保管してくれていた。
上富良野町で学徒勤労動員の実態を調べている元東中中学校校長・下田達雄氏が、この話を知り働きかけてくださったお陰で、町郷土館に「雪下駄」が寄贈されることになった。
これがきっかけとなって、長い間音信が途絶えていた濱澤さんとも電話で話すことが出来、さらには新聞にも掲載され(平成六年四月十二日・北海道新聞夕刊)、平成七年には「雪下駄の里帰り」として奥さんと一緒に上富良野に来られ、「よくまあ忘れんでいてくれて……。その心がうれしい」と五十一年ぶりの再会を果たすことが出来た。
掲載省略:写真〜平成7年7月5日雪げたの緑で濱澤さんご夫妻と51年ぶりに再会した久さん
楽しい日暮らし
子供に恵まれず、息子も戦争で亡くし、悲しい日々を送っていたが、清一と一カ月違いで入営し、戦後帰って来た実家の弟、乙[おつ]と昭和二十一年に養子縁組をした。そして、その秋には乙とハツエの結婚式をあげた。今は夫も乙も亡くなったが、嫁バツエそして孫夫婦、曾孫達と一緒に生活が出来て大変楽しい毎日を送っている。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子