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第二章 激動編 女性の戦中・戦後

引揚体験−第二次世界大戦の果てに

田中 きよ子さん 七十五歳(日の出)

   昭和二十年三月十日東京大空襲

 今では夏になると、花火で都民の涼を賑わす隅田川に、焼爛[やけただ]れた身体に水を求め、力尽きて息絶えた黒山の死体と化した人々を目の前にした時は、その後に現在の街並が出来るとは想像すらつきませんでした。
 大空襲の最中、夫は自警団の任務を果たすため、親子三人で退避する事すら許されず、私は一歳の長女を背負い、両手に持てるだけの荷物を下げて、とにかく広場を目指して逃げました。焼夷弾の雨の中を逃げ惑う群衆が行き交い、背負った布団に火がついたまま逃げている人、背中の子の息絶えているのも知らず逃げている人など、とてもこの世のものとは思えない有様で「風上へ逃げろ」と叫ぶ声が聞こえ、それが命の明暗を分けたことをあとで知りました。風下へ逃げた人々は猛火に追われるように川の中へ次々と飛び込んだそうです。
 翌日、行方を捜しに来た夫は暴風で飛ばされた戸板の五寸釘が手の平を貫通し、後々後遺症が残る程の大怪我を負っていました。この様な事態の中で命があっただけでも有難い事でしたが、それからが大変で、夫と三人で住居のあった町内に戻ったところ、町は全滅状態で前記の有様だったのです。一面の焼野原に食糧など求めようもなく、買出しリュックを背負い、窓ガラスの割れた列車で千葉県まで出向き、農家に食糧となる物を分けてもらう為、方々歩きましたが、当時なかなか手に入らなかった「砂糖や石鹸を持って来たなら米と取り替えてやる」などと言われ、わずかばかりのサツマ芋が手に入れば良い方で、日によっては何も分けてもらえない事もありました。
 その様な時に北海道で、開拓入植者を募集している事を知り、子供の頃を長野県上田市で過ごした夫は土との関わりも少しあり「北海道には広い土地があり、食糧を沢山作る事ができる」と、北海道行きを決心しました。
 その頃、夫も私もすでに両親は亡く「何も北海道まで行かなくても」と、反対する私の姉の家族と涙の別れをすることになり、その姉とは二十年近くも再会する事はありませんでした。
 「北海道は寒いから」と、知人がくれた火鉢と少しばかりの荷物を鉄道駅から送ったのは、奇しくも昭和二十年八月十五日の午前中で、昼には終戦を知りました。駅に行くと放心状態の駅員が「戦争は終わったんだよ。どうして北海道なんかに行くの」と、しきりに北海道行きを止めました。それでも道中の食糧に妙り大豆を入れたお茶缶を持ち、列車を乗り継ぎ、台風時期で時化のため出港できない船を待ち、半月近くもかかって目的地の上富良野に着きました。

   開拓の地に夢を託して

 上富良野に来て二年程は他の部落に仮り住まいで、道路もない原始林を切り開くには、女性の力と、そして幼い子供の力まで家族総動員しなければ進める事は不可能なことでした。
 開墾の為に使った鋸、笹刈り鎌、笹の根を掘り起こす荒地鍬は当初の農道具として大切なものでした。
 ふた夏、通いで少し開いた土地に、切り出した丸太で、土に穴を掘り開拓小屋を建て、茅を刈り取って屋根を作り、入口には筵を下げただけの粗末な物で、土間に鶏を数羽放し飼いにして、筵を敷いただけの板の間がすべての生活の場で、ランプの灯がかすかに手許を照らし、水は川の水を汲み、大雪で川まで行けない日には、軒先の雪やツララを鍋や釜で溶かして便いました。
 幾日も続く吹雪や、寒さで凍え死にしなかったのが不思議な程、只々耐えるだけの日々でした。
 当初は、薯や南瓜などの越冬の仕方も知らず、開拓小屋の土間に何枚もの筵をかけて置きましたが、一度寒波が来ると凍ってしまい調理できない堅さになり、それを薪ストーブの近くで解かして、配給米や麦を少し加えて雑炊にして、春の訪れを首を長くする思いで待ちました。
 その頃、少しずつ聞こえて来る東京の復興の様子を知り、何度も「逃げ帰り人間らしい生活をしたい……」とも思いましたが、食べる事さえままならぬ時に東京までの汽車賃など手元になく、どうにもならない運命としか思い様もなく悲しい気持ちで暮らしておりました。
 環境の変化もあってか入植以来すぐに次の子を宿す事もありませんでしたが、昭和二十三年四月長男を出産した後、政府貸付けにより、等外製材と土壁の家を持つ事が出来、終戦の年一歳だった長女は小学校へ入学しました。しかし農耕馬、農機具すべてが借金で増々身動きが出来なくなっていました。
 夫は雪解けを待って、開墾が始まると東の空がまだ明けぬ三時に起き、夜は寝る間も惜しんで働き、六年程で身体を壊して、それが元で六十六歳でこの世を去るまで入退院を繰り返したのでした。頼りの夫が病に倒れ、それからは、まだ幼かった子供達も働き手となり苦労を共にしました。

掲載省略:写真〜静修開拓10周年記念の日に町の関係者と部落の人達、後列右から4人目が夫の田中兼雄さん(昭和29年9月10日)

 昭和三十九年、長男が中学を卒業して開拓二世を担うまでの六年間、病気の夫に代わり長女が農耕馬を相手に、部落の方達の助けを借りながら営農の役割を果たし、その長女が昭和四十年に結婚し、次女が中学卒業後長男を助け、生活も少しずつ楽になり、他の子供達もそれぞれ親元を巣立ち、ようやく息をつく思いでした。
 三年程手伝ってくれた次女も嫁ぎ、家を離れていた三女が一年間家を手伝ってくれ、こうして開拓地の営農は子供達に支えられてきました。三女も遠く栃木へ嫁いだ後長男が結婚し、孫も出来て、ようやく親としての役目を終えた思いでした。
 開拓部落の同志の家にもそれぞれ後継者が成長した頃でしたが、高度成長期の大規模機械化農業への指導の許に、農地を売却して離農する人達が次々と出て、部落も淋しくなりましたが、長男は開拓二世の意地を見せ、耕地を増やし、それまでになかった近代化農業を営みました。
 然し第一次オイルショック以来の農作物の不安定な価格と設備投資との不釣り合い、人件費等で先行きに不安を感じて昭和六十三年離農を決意し、転職しました。
 こうして戦後四十数年、静修開拓での私達家族の歴史は幕を閉じました。そして静修開拓での歴史の上に新たなる子供達の歴史は、始まりました。
 入植以来長きに渡り静修開拓団の為にご尽力、ご指導下さいました皆々様に心からの感謝とお礼を申し上げ筆を置きます。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子