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第二章 激動編 女性の戦中・戦後

新生を求め、生かされて

長内 よしゑさん  七十三歳(中町)

 大正十二年九月七日の関東大震災直後、青森県黒石町で醤油、味噌醸造業を営む三上長太郎の次女として生まれました。三人姉妹でしたが家族の他に杜氏[トウジ]様を始め、若い衆や女中さんなど常時十八人位の世帯で、仕込みの時期になると使用人もまだ増え、母や女中さん達の忙しさは大変でした。三度の食事とおやつ作りの指図、その合間に接待や交際等、夜は女中さん達に裁縫を教え一人前の娘さんに育てる事が母の責任でもあったのです。

掲載省略:写真〜氏神様のお祭りの日に両親、姉、妹、従兄と一緒に(6歳のころ)

 父は病弱で私が物心ついた頃は、家業に立働く事は一切なく、自分の体調に合わせた生活をし、本業の他に趣味で火薬銃砲店と小さな芝居小屋をやって
いたので専らその商売に力を入れていた様でした。その頃、農家の女性達の苦労は誰しも認めるところでしたが、商家の女性もまた人目に付かない所で男性とは対照的な生活をしながら、只々堪えて生き抜いて来たものです。私が幼稚園の頃、姉は女学校の卒業前日に、父の選んだ人(勇三)と結婚しました。東北の田舎町の故か、まだ士族・平民の肩書が取れず自由な結婚など考えられない時代でした。
 昭和十二年、私は青森県立弘前[ひろさき]高等女学校に入学し、十七年卒業、母校に勤めるつもりでしたが「女が職業につく事は許さない」と母に止められたので、その年の七月に父が決めた浪岡町の地主の三男長内敏栄と結婚しました。

掲載省略:写真〜弘前高女3年生の時、弘前放送開局記念に音楽部員と(昭和14年)後列右より2人目よしゑさん

 その頃、長男の嫁は何か行事がある場合は、来客の接待など、その家の一番大切な役目をしますが、他の嫁は分家でも女中さん達同様、表に出ずに裏の仕事をしていました。本家に何かあればすぐ役立つ様にと、家風見習の為に私も二カ月間、主人のいない本家でいろいろと教わりました。
 主人は華北交通KK資業局港湾に勤務しており、本社が北京でしたので私も九月に行き、北新橋駱駄?[ベーシンチョウロートボー]胡同[ホートン]に住む事になりました。主家[おもや]に住んでいる今周[こんしゅう]二[じ]さんと言う方は、青森県出身で早稲田大学文科系卒業の優れたおじさんで私達はとてもお世話になりました。知人もなく衣食住も言葉も違う国に来て一日を過ごすのが精一杯でした。
 戦争が激しくなるにつれて、主人は連雲港と言う日本海軍の常住している港へ単身赴任となりました。住む家も変わって、水も中国人の水屋から買って暮すことになり、昭和十八年十二月十四日に私は会社の付属病院で長女を出産しました。主人は休暇を貰って一週間程帰宅し、娘に「和子」と名付けて現場へ帰って行きました。
 翌年の四月、主人の任地に社宅が出来て引っ越したのも束の間、十月には空襲が激しくなり家族だけ塘活[タンク]に疎開しましたが、二十年には此処にもアメリカ軍の飛行機が来て防空頭巾を離せない日々が続きました。そして八月十五日、留守宅給料を頂きに会社へ行った時に、天皇陛下の玉音により敗戦を知りました。早く帰って上部からの指示を待つように言われ、帰宅途中に私はふっと思い付き、銀行から預金全額を引き出して帰りました。翌日には敗戦国のお金は一切引き出せない事になり、私にとってこのお金が引き揚げまでの命の綱となったのです。
 ラジオから流れて来る指示通り、その夜のうちに仏壇、神棚、刀剣等日本人にとって大切な物は全部庭で焼きつづけました。神社にも火がかけられ空一面に炎と黒煙が立ち登り、自宅と回りの炎に押されながら和子を兵児帯[へこおぴ]で柱に縛って、急いでおにぎりを作り荷造りをしました。ラジオでは明日未明社宅を出る・行先未定・衣服は四季を凌[しの]げること・飯盒[はんごう]と食料はもてるだけ持つ・布団と衣類・米等は荷造りして名札を付けて社宅に置く・集合場所は塘活[タンク]駅、書き取ってそれを見て支度をしているつもりでも、慌てているので自分では何をしているのか分からないのです。
 今、私の一番大切なものは何?「和子だ!一年八カ月の子供は大人と一緒に歩けない。先ず、おんぶしよう。荷物は両手に持てるだけもって、食料などは思い切って捨てよう。死ぬ時は母娘一緒だ」と決めたらスーツと気が軽くなり、一息ついて壁に寄りかかってウトウ上したのでしょう、ダダーンと言う銃声で気が付くと、今出て行く私達の社宅に中国人が押し入り、てあたり次第に物を持って逃げて行くのです。「あとでゆっくり持って行けるのに」と思いつつ、明日をも知らぬ旅に向う私達のこれから先の事を思うと、只悲しいばかりでした。
 五十軒の留守宅の主人達は同じ所で仕事についていたのですが、十五日の夜には二人を除いて殆ど帰って来ました。残った二人は主人と上司でしたが、その経緯は分かりませんでした。昨日までは親類同様のお付き合いをしていた隣のご夫婦さえ、荷造りに忙しく一言の声も掛けてくれませんでした。我が身の一大事の時は他人の事など考える余裕も無いのが当然なのだと知りました。今日から日本は変わったのだから、私も生まれ変わって人に頼らず自分の力でやれるだけやるしかないのだと強く心に決めました。日頃から、戦争に負けた時は私達日本人は生きてはいられないと覚悟は決めていました。しかし敗戦となっても自決の命令は無く、私自身も父から貰った短刀も焼いてしまい、その手段も思い付かないまま、子供の事を考え皆さんと一緒に木の葉のように流れに任せて動いていました。
 無覆[むがい]貨車に乗り、三日目に着いた所は天津[テンシン]でした。一カ月間転々と歩き廻り、最後に日本人旅館だった所に五十人程で住む事になりました。その日の糧を得る為に、男は街角で手持ちの物を売り、女はキャバレーで働きましたが、私は和子がいるので働きに出る事も出来ず、働きに行く人達の子供を預かってみていました。昼は外に出られないので夜に男装をして食糧の買い出しに行きましたが、日増しに手持ちのお金も底をつき麦香煎[むぎこうせん](麦をひいて粉にした食品)と沢庵と水で凌ぐ生活でした。
 その上、中国の軍人が銃剣を持って宿舎に入り、物やお金を脅し取って行く毎日でした。終戦後、逃避中に出産したばかりの女性は堪えきれずに発狂し赤ちゃんも間もなく死にました。また母親が栄養失調で母乳が出なくなってしまい、赤ちゃんが次々と死んで行くが、遺体を埋めてやることさえも出来ませんでした。そのうちに大人の病人も多くなり、母国へ帰れると言う望みも無く、この国で生きて行く事は不可能と知り、最初の予定通り皆一緒に自決することに決めたのでした。死と言う未知の世界へ行く事も不安でしたが、今此処で起こっている苦痛から逃れたいと言う思いの方が強かったので、覚悟を決めたら肩の荷がおりました。時と場所、方法などの相談を始めた或る日、突然会社の人が来て「日本へ帰れるかもしれないから、もう少しの辛抱だ」と励ましてくれました。
 間もなく引き揚げの快報が届き、何人かずつ帰る事になりましたが、女一人の子供連れは私ともう一人の二組だけでしたので、その方に先に帰って貰う事にして、私はどうしても思い切れませんでした。目に見えて体力の弱って来る和子の為には一日も早く帰る方がいいと思っていても、主人の生死も分からずに私達だけ先に帰ることは主人の両親に申し訳なく思い、最後の引き揚げ船まで待つ事にしました。
 残る人も少なくなった或る日、ポロポロの服を纏[まと]い裸足同然で乞食のような人が訪ねて来ました。それが、もう生きて二度と会う事はないと諦めていた主人との再会でした。主人もまた奥地に住んでいた開拓団の人達を引卒して此処まで来たとの事でした。塘活港からの乗船を待つ間は日本軍の倉庫にいましたが、木造なので十二月も半頃になると凍死する人が続出し、軍の木炭を貰ってホッとした翌朝、私の隣に寝ていた十人程の人達が一酸化炭素中毒で死んでいました。「此処まで来て……」と言うよりも「神様はどこにいるの!」と叫びたい思いで一杯でした。乗船する前日に一晩中、和子を背負って零下四十度の外に立ちつくしていた時の手足の凍傷は何十年たった今でも尾を引いて、雪が降ると思い出します。
 二十年十二月三十日、塘活港からアメリカの上陸用の小型船に丸太の様に積み込まれ、佐世保港の沖に着いたのは昭和二十一年一月一日の朝の事でした。
「皆さん、今日は一月元旦です。年の初めの目出度さを、今、命ある事を祝いましょう」と誰が言って配ってくれたのか分かりませんが、小さな金平糖[こんぺいとう]を二個手の掌にのせてくれました。子供の頃の思い出が走馬燈のように駆け巡り、暫らく忘れていた涙が止め度なく流れて、今まで辛かった事などが遙か彼方に押しやられ、また新しい元気が湧いて来ました。
 帰国後、お互いの実家の様子を引き上げ局に聞いても皆目分かりませんでしたが、一月五日、青森に帰ってみるとどちらの家も家族も無事だったのです。私達は暫く主人の実家にお世話になり、十一月に長男(敏数)を出産しました。翌二十二年弘前に出て、
二階一部屋を間借りして主人は文具の外交を始めました。私は子供がいるので外の勤めは諦らめて和裁の内職をしていました。その後、知人のお世話で小さなデパートに文具の店を出す事が出来ました。二年程して義父の手助けで古い住宅を買い、商売も漸く順調に進んだ頃、私共の不手際から倒産してしまいました。実家の義兄の手助けで何とか整理は着きましたが、またも裸になった私達なのです。
 そこで暮す事も出来ず、当時上富良野町に住んでいた知人の勧めで、昭和三十年七月当地に移って来ました。長女が附属小学校六年生、長男三年生、次女が五歳の時でした。夏は仕事があっても冬は何も無く、資本の要らない仕事を考えた末に「おやき屋」をする事に決めて、材料問屋さんの紹介で旭川の店へ伺った時、ご主人に手厳しく叱られました「こんな小さな店でもこれで生活していくのはそんな簡単なものではない。私も他人の店に奉公して、漸く今日になったのだから教える事は出来ない。本気でやる気持ちがあったら自分達で考えて開拓しなさい」と言われましたが、本当にその通りでした。終戦当時の苦しみを月日の経った今は忘れかけて、貧すれば鈍するの言葉通りになっていたのです。
 考えを改め、翌日からご飯を抜いて朝から評判の良いお店を食べ歩き、そして持ち帰っては材料を調べる。素人のする事ですから充分とは行きませんが、何とかお客様に食べて貰える商品が出来ました。宇佐見利治さんの劇場の空地をご厚意で貸してもらい富良野駅の古い売店を佐藤家具店さんの紹介で譲って頂き、それを西村建具屋さんに修理をお願いし、町内の方々の暖かいお心を頂いて商売を始める事が出来ました。しかし、閉め切った小さな屋台の中で木炭でおやきを焼く為に、一酸化炭素中毒になって度々倒れ、宇佐見さん宅には大変ご迷惑をかけてしまいました。中毒症が原因で渋江病院へ行くと「この仕事は貴女に無理だから」と渋江先生に言われて、転職を考えるようになりました。
 昭和三十五年、長女が高校一年、長男中学一年、次女小学校三年生の時、家族で相談の末、新しい仕事に変わる為に、主人より九歳若い私が勉強に行く事になりました。女性が家を空ける事は大変ですが、最も短い期間で学ぶには少しでも若い方が良いと言うのが子供達の意見でした。それに私も三十九歳になっていました。家族全員で働いてそれぞれ一生自分の身に付くこと、好きな勉強をする。理想的な考え方ですが、私達夫婦も世間並に親に学資を出してもらって学校を終えたのに、我が家の子供達は一年間とは言え、家業を手伝いながら学校へ行くと言うのです。親の立場で申し訳なく思いましたが、この先、進学するための先取りだと思う事にして二人の協力を受けることにしました。
 主人は「どうせ勉強するなら一流の場所で、一流の先生に付かなければ意味がない」と言ってくれましたので、私は考えた末に東京四ッ谷に学校を開いた大塚末子きもの学院を選びました。北海タイムス社の主催により旭川市で「新しいきもの」と言うタイトルの講習会があった折に先生に直接お話を伺い、九月の新学期に入学しました。
 教育内容は「きものの総合教育」で私の望んでいたそのものでした。日本各地から、年齢も違い求めるものも異る女性達が「きもの」と言う目標に向ってそれぞれの道を登って行く、若い方達と学ぶことは楽しくもあり、厳しくもありました。
 一年を通じて提出物と出席日数が定められており、守らなければ卒業証書は貰えない事になっていました。織物クラブで担当の織田秀雄先生と言う、絣に造形の深い先生が直接私の指導をして下さる事になりました。卒業後も札幌の店を継いだ子供達にまで染織の基礎など深く教えて頂き、一生を通じての恩人となりました。
 また月に一度教養講座と言って、それぞれの道の著名者を招き講演会を開いており、田舎ではとても出来ない勉強の一つでした。毎朝お会いする院長の
きもの姿は全生徒の憧れの的で、きもの、帯、小物に至るまで何一つ見逃すまいと頭の中に叩き込み、本や言葉で覚えるのではなく、師匠から盗んで覚えるとはこの事なのだと知りました。「目と手と肌で確め、感じて、自分のものにしなさい」と常に言われましたが、新しいきものとは古い伝統の上に立ってこそ初めて成り立つ物だと分かりました。
 当時、日本中にきものの早縫いを普及していた吉井先生の学校に入学したいと思い訪ねましたら、そこで会った秘書の方は主人の村の助役さんの奥様でした。年齢は五十歳位でしたが、これからの自分の夢を山程持っていて、今漸く一歩を踏み出した私を励ましてくれました。
 疲れた時、音楽を聞き故郷の言葉で語り合う、私のオアシスでした。予想外の広い分野を見聞し、仕事の構想も大体きまり大塚先生に報告に行きました。先生は「そんな夢のような仕事を始めてもやっていける筈はないから、私のアトリエで仕事をするか、デパートのコンサルタントでもしたら」と勧められましたが、これからの私には子供達の進学と言う大きな仕事が待っていましたので、昭和三十六年十月卒業して帰って来ました。

掲載省略:写真〜大塚末子きもの学院卒業の日に院長とよしゑさん(昭和36年10月1日)

 四十年「きものと民芸品」の店を開くまでは、主人とお手伝いの方で食堂をつづけて、そのお蔭で長女、長男の東京遊学を終える事が出来ました。次女
(康子) は児童憲章を盾に家業の手伝いはしないので大学へは行かない約束でしたが、結局札幌の短大に行きました。昭和五十年に札幌へ支店を設け、次女夫婦が営業してもう二十三年になります。
 引き揚げ、倒産とあまり良い思い出はありませんので、昔の事は人に話すこともなく、いつも今を生き、未来に夢を託して来ましたが、振り返った時、その経験があって初めて今の自分がある事に気付きました。楽しい思い出と言えば子供の頃、いつも芝居や活動写真が見れたこと、年に一度、私達姉妹の友人知人を呼んで父の果樹園で素足で走り回り、果物、おにぎり、ソーメンなど母の手料理を食べた事が一番の楽しみでした。
 ほんの僅かな北京生活の中にも、春は黄塵[コウジン]と言う蒙古から吹いて来る砂の大軍に見舞われ、外出時は眼鏡とベールを付けるので誰なのか見分けもつかず、とんだ失礼をする事も度々でした。秋には群青[ぐんじょう]の大空に何百羽の笛をつけた鳩が飛び交い、ヒユーヒユーと鳩笛の妙[たえ]なる音を響かせ、その大陸のブルジョア的な遊びは私達庶民にその楽しさを分け与えてくれました。
 私の人生の中ではっきりと分かった事は、人は自分の力で生きているのではなく、目に見えない力に生かされているのだと言う事です。この地に移り住み四十二年になりましたが、何よりの財産は自分には過ぎた友人に数多く恵まれたことです。優佳良織[ユーカラオリ]の織元・木内陵さんのお宅で、杉村春子さんの書かれた「自分で選んで歩き出した道ですもの」を拝見して、最後に選んだ私の道は正にその通りの道でした。
 結婚五十三年も過ぎようとしている老夫婦が多くの死線を越えながらも、未だに生かされていると言うのは不思議な事です。果すべき仕事がまだ残っているのでしょうか……。
 ともあれ、この上富良野町で私達の第四の人生を心豊かに過ごさせて頂きたいものと願っております。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子