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第二章 激動編 女性の戦中・戦後

私の半世記

岡和田 広子さん  七十三歳(島津)

 私は隣町中富良野の水田農家に八人兄弟(三男五女)の三女として、大正十二年五月二十一日に生まれました。子供の頃はよく兄弟げんかをしましたが、親はいつも年上の者ばかりを叱ったものでした。
 学校も比較的近かったので余り苦にならずに通えました。六年生の修学旅行は札幌・小樽と大都市見学、高等科の時は登別・室蘭と大きな工場見学で、それまでは何処へも出た事のない私は乗り物に弱かったのですが、よい思い出となっています。
 卒業後、家の手伝いを四年して、その後に親の知人宅へ八カ月間奉公に行きました。雇われただけによく仕事をさせられましたが、そこで働いた事が身
につき、翌年の昭和十八年三月、親同志が知り合いで、それに人手不足と戦時中の事でもあり、親の言うままに農家の長男のもとへ嫁いで来ました。

   夫の留守を守って

 結婚して一カ月余りの五月一日、家族との暮しにもまだ馴染まないうちに、夫が教育召集で札幌月寒に入隊しました。六十歳を過ぎた両親との三人暮らしで、舅に馬使いの仕事を教わり、交代もしながら、覚えるのに夢中でした。
 舅は無理がたたって病気になり、二十年春、富良野協会病院に入院しましたが、七月に入り病院がアメリカ軍機の空襲に遭い急に退院となりました。
 家で療養中は栄養になる食べ物もなく、唯一薬が頼りでしたが、薬を貰いに行くにも汽車の切符は早朝より並ばなければ買えず、待ち切れずに自転車で出かけ、帰る途中にパンクして中富良野の西中から自転車を押して歩いた事もあり、とても疲れましたが、舅の喜んでくれた顔は忘れられません。
 療養の甲斐なく舅は、その秋の十月十三日に亡くなりました。この年は大凶作で、葬式後に稲刈りをし、近親の援助を受けながら私なりに頑張りました。言い表わす事の出来ない苦労に、私の親は「良くやった、体をこわすな」と心配してくれましたが、丈夫が取り柄の私でした。それからは姑との二人暮らし、姑も私を頼りにしてくれました。
 また同じ年に私の兄が三人の子供を残して戦死、そして両親の病死と不幸が続き、淋しさと疲れで、戦争のための苦労をいやと言う程味わい、とても書き表す事は出来ません。
 舅が亡くなってからは、部落や近所の男の人達、と言っても老人ですが(若い人は残っていないので)一緒に払い下げの薪を運びに十勝岳の麓まで馬橇で行きました。厳寒の最中[さなか]まだ暗いうちに家を出て途中で朝日が顔を出し、他家の煙突から煙が出ているのを羨ましく思いながら、凍[しば]れる寸前のおにぎりを食べた事もあり、米の供出に行って他の人に迷惑をかけた事もありましたが、高松の小父さんに助けて貰ったりして精いっぱい頑張り、文字通り粉骨砕身[ふんこつさいしん]働きました。

   時代と共に生きて

 終戦になり、夫は直ぐにも復員して来ると思っていましたが、シベリアに抑留されソ連の捕虜となり、食糧不足の中で重労働を強いられ、そして耐え抜き生きのびて、昭和二十四年十月、最終で復員して来ました。あらゆる困難に耐えて来たのでした。
 それからは、共に耐え忍んだ苦労の日々を語り合いながら、三人の息子の父となり母となって楽しい家庭生活を送り、思い通りに仕事も出来る様になってホッとする間もなく、五十一年八月、夫は五十四歳で帰らぬ人となってしまいました。思えば短い夫の一生でした。冥福を祈るばかりです。
 翌五十二年、後継者の長男が良縁に恵まれ結婚したのを機会に一切を任せ、協力してやって来ました。
 私は若い頃「七十歳まで生きられるかしら」と思った事もありましたが、今七十歳を過ぎて、歳月の過ぎる早さを感じ、今は医療制度や食生活の向上により長生き出来る時代になりましたが、今日まで病気もせずに来られた事は何よりと感謝しています。そして現在、高校生の孫三人と、家族六人が共に暮らせる幸せ、長男夫婦のお蔭で有難い事だと思っています。
 恵まれた福祉制度に支えられて贅沢には限りありませんが、激動の時代を乗り越えて来た私達、お互い残された人生を大事にしたいものです。今は地区の老人会をはじめゲートボール連盟での友人との交流など、家族の理解に感謝しながら、健康維持のため家族のため自分のためと、出来る事はさせてもらっている毎日です。
 世は平成に変わり、文字通り平和な時代に生きて最高の生活に慣れ、物質的にも不自由なく暮らしていけるのも「昔があって今がある」 と言う事を忘れてはならないと思うのです。

掲載省略:写真〜ハワイ島のワイキキ浜での広子さん(平成9年3月29日)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子