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第二章 激動編 女性の戦中・戦後

戦中・戦後の想い出

朝日 テル子さん  六十八歳(新町)

 今から思い起こすこと五十数年前を懐古し、その当時の事を書いて見たいと思います。
 私は小学校時代、田舎に住んでいたせいか戦争中の印象は少ないのですが、その中でも、農耕馬として飼育中の馬が軍用馬として徴用(当時は農作業には大切な馬)されたり、村の若い青年が皆召集され、その出征兵士を日の丸の旗を振って見送り、また出征兵士に贈るため女の人達によって千人針(腹巻)を作って贈った事を憶えています。
 千人針は辰年・寅年の女性は自分の年の数だけ糸玉を作り、その干支[えと]以外の女性は一個だけ作りました。それは辰年と寅年の女性は強く勢いがあると言う事のようです。
 私の家でもひとりの兄が召集され北支方面に出征しました。その時から母は朝早く起き、二`近くもある道を毎日、村の神社までお参りに行き武運[ぶうん]長久[ちょうきゅう]と兄の無事を祈っておりました。或る時、お参りから帰った母の髪を見て短いのに気付き母に尋ねると、兄の無事を念じ髪の毛を神社に捧げたと言っていました。

   学生の頃

 昭和十六年、高等科卒業後女学校に進学しましたが、今と違っていたのは一般教科に礼法、武道(薙刀[なぎなた]・剣道)被服(和裁・洋裁)があって被服の時間には軍服の修理の奉仕作業も幾日かあり、勤労奉仕で旭川の味噌工場に行き、軍隊で使う乾燥味噌作りもしました。
 私は寄宿舎生活でしたが日常の規律正しい行動等が要求され、今の時代とは異なった生活でした。非常時に於ける防火訓練の実施等、当時は何処の家でも家の前には防火用水(バケツ等に水を入れ)モップ等、消火作業に必要な用具は必ず用意されていました。寄宿舎でも同様ですが、夜休む時は必ず、非常時には何時でも避難出来る様に、防空頭巾、非常食、薬品の入った救急カバンを頭のそばに置き、電灯には黒い布をかけ外部に光がもれないようにする等のきまりがありました。
 寄宿舎の食事は当初は米でしたが、次第に麦、大豆、南瓜が入り米は少なくなりました。毎日の食事も大変な時代でしたが、私の家は農家でしたので米、澱粉、南瓜、配給になった砂糖等を送って貰った事が思い出されます。
 そんな中でも楽しかった事は、年に一度六月上旬に、慰霊音楽大行進があり、各学校や団体が参加し、旭川駅前から護国神社までの行進を思い出します。

掲載省略:写真〜昭和17年9月、東神楽へ援農(14歳の時)後列右より2人目テル子さん

 制服も途中で変わり雪袴[ゆきはかま](ズボンとスカートを合せたような物)になりました。又卒業の年になると勤労報国隊が出来、東神楽、東川方面の出征兵士の留守宅に稲刈りの奉仕作業に出るようになりました。
 勉強の日数も少なくなり、その頃寄宿舎では軍鳩班が出来、兵隊さんが飼育指導に来てくれました。私もその飼育班に入っていました。余り勉強もしないまま昭和十八年三月卒業しました。今では考えられない学生生活でした。

   教諭の道へ

 其の頃は、職に就かない者は女子挺身隊に行くか軍需工場に行かなければならず、私は、兄がハルビン(現在は中国)にいたので、兄からの便りに満州の国民学校に勤めないかと書いてありましたが、父母の反対で、母校の小学校に助教諭として就職する事になりました。教諭の資格を取る為、夏休みを利用し、旭川・札幌の教育大学で講習を受け教諭の資格を得る事が出来ました。
 就職の時は洋服を作る生地を購入するにも物が無く、父母の着物やコートなどを洋服に仕立て直して着せてもらい、父母の着物はみな私が利用した様な気がします。思うように必要な物資を買う事の出来ない大変な時代でした。
 勤めて最初に受持ったのは三、四年生(複式)で教える事に唯一生懸命でした。時には雪山に、造材した木材から切り落された松葉を拾いに児童を連れて行き、集めた松葉とともに滑り降りビショビショになったこともありました。この松葉は村の搾油工場で油を搾[しぼ]り軍用機の燃料にしたそうです。どんな時にも戦地の兵隊さんを思うと、つらい事も我慢できる毎日でした。
 次のような言葉が思い出されます。「欲しがりません勝つまでは」「今は日本節約時代、パーマネントはやめましょう。ハイヒール履かないで下駄履いて、着物の上からモンペはいて、銃後を固く守りましょう」。其の頃は女子は皆ズボンかモンペ姿で、長着は標準服に仕立て直して着ました。
 校庭の一角に奉安殿と言う小さな建物があり、そこには教育勅語、御真影[ごしんえい](天皇・皇后両陛下の写真)が入っており、その前を通る時は必ず礼をして通りました。国民の祝日(明治節〈明治天皇誕生日〉、紀元節〈現在の建国記念日〉、天長節〈昭和天皇誕生日〉)には家々で日の丸の旗をたて、学校では式が行われ校長先生はモーニング姿に白い手袋を着け、奉安殿より教育勅語等を黒塗りのお盆に載せて捧げ持ち、教頭先生が後に付きそい式場まで運びました。式では必ず君が代斉唱からはじまり、校長先生が奉読する教育勅語を頭を下げて聞き、決して頭を上げる事は出来ませんでした。当時は厳粛な行事でした。(奉安殿=各学校にあったが戦後撤去され、現在東中にのみ残されており、町の文化財に指定されている)戦争に対する疑問ももたず、最後は必ず勝利すると信じ恐いもの知らずでした。
 田舎なので飛行機や汽車を見た事がない児童もいました。上空に飛行機が来た時はいっせいに校庭に出て見たものです。後でその飛行機は米軍機とわか
りました。それから幾日か後、大切な放送があるとのことでしたが、其の頃テレビは勿論ラジオも学校か役場にしかなかったので、村の人達と校庭に集まり皆で聞きました。雑音が入り良く聞き取れなかったが、戦争が終わり敗戦と分かると気が抜けた感じで悲しみも感じませんでした。早速家に帰り知らせると、姉からはうそだと叱られ家の者も信じませんでした。
 其のうち上部からの指示により教科書の中の戦争に関係のある絵や言葉に墨塗りが始まり、私は本校だったので分校まで墨塗り削除の手伝いに先生方と行きました。
 今思うと、夫や子供が出征し、留守を守っていた家族はどんなにか大変だった事かと思います。今の恵まれた生活の中で、自分自身が時には過去を振り返り、感謝の気持ちを忘れずに残された人生を送りたいと思います。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子