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第一章 開拓編 女性のくらし

人生八十年の思い出

諏訪 キヨエさん  八十二歳(大町)

   十勝岳の爆発

 大正四年九月十六日、上富良野村草分にて私は、この世に生を受けました。
 幼児期は何の苦も知らず元気で平和な日々を過ごしていましたが、突然に此の世の恐ろしさを知らされました。大正十五年五月二十四日夕方の事です。それは十勝岳の大爆発でした。小学校五年生の時でした。
 数日前より雨が降り続き、その日も雨でした。凄まじい大音響と共に、残雪と一緒に、まるで地滑りの様な形で、高い山から新井牧場を通り抜け三重団体にと泥流が広がってしまったのです。
 幸い私の家は少し高いところにあったので、その恐ろしい泥水・大木・大きな石などが入り湿った泥流が家の前を通り過ぎるのを見ていました。その時此方[こっち]に向かい走って逃げて来た本家のおばあさんといとこ三人、おばも途中で泥流にさらわれ見えなくなり、私達は大声で泣きました。
 その時の死者、行方不明者は合わせて百四十四人とか聞いていますが、富良野平野として最も開拓の古い三重団体も一瞬の間に泥の海となり、草分の小学校も流されてしまいました。
 一カ月後ぐらいかとおもいますがボートで大人の人達が、山から鉄道までの間に板の橋を作って下さり私達は市街の学校へ通う事が出来ました。

   母 の 死

 昭和二年秋頃、草分の上富良野尋常小学校も立ち直り、私は小学校を無事卒業し上富良野小学校高等科に入学しました。運動会などに母がいつも見に来てくれ、学芸会には一番前で見ていてくれました。私は本当に良い母親だと嬉しく思っていました。
 高等科卒業式を終えて間もなく、母は出産のため病院に行きましたが、早産であり手遅れとの事で他界してしまいました。これは私達五人の姉弟にとって何とも言えない悲しみでした。
 その後、父は後妻を迎えましたが、その母は後妻とは思えぬ程に私達姉弟には良い親で本当に嬉しく思いました。よく世間で言われる継母[ままはは]と言う意味も知らず、私は高等科を出てから上富良野実科女学校(補修料と言っていた)に三年間も通わせて貰いました。

   結  婚

 いつの間にか青春時代も終りを告げる年齢となり仲人もちらほら来る様になって、そのうちに仲人と父の問に話が進み、顔も写真も見ていないのに結婚が決まりました。
 話が決まって数日後に先方から手紙が届きました。「仲人さんのお蔭で君を良き伴侶として迎えることが出来ることは誠に嬉しく思っている。然し今は戦事中でもあり僕にも軍籍があるのだが……。それは充分に覚悟して来て貰いたい」と、余り長くない、愛情などちっとも見えない手紙でした。それでも、二月三日に式を挙げました。
 主人の職業は装蹄[そうてい]師でした。馬や牛の爪を切り歩き易くするもので、農業には大切な農耕馬、軍馬、種馬の育成などの足を守る大切な仕事でした。主人は仕事には研究熱心で、昭和十三年に札幌にて全道装蹄師の学科、実科の技術大会が開かれ、上川管内代表で出場しましたが運よく優勝して、優勝旗、賞金、多くの賞品を頂きました。それからは、お客も日毎に増えて私達は楽しく暮していました。

掲載省略:写真〜昭和13年9月「北海道装蹄師技術大会」で優勝した夫武雄さんとキヨエさん

   夫の出征

 ところが、それから十日目に役場の方が召集令状を持って来ました。これが第一回目の召集で、町内の方々に見送られ主人は勇んで出征して行きました。
 一人残された私は既に懐妊していたので、一時、実家に身を寄せて出産しました。子供がやっと歩き出した頃、主人は一時解除とかで帰りましたが、二年も経たないうちに二度目の召集が来ました。この時は夜の汽車で静かに発って行き何處[どこ]に行くのかも分かりませんでしたが、二十日程してから、樺太の敷香に元気でいるとの手紙が届きました。その時は子供も二人になっていましたので母子三人で暮していました。
 ぼつぼつと和裁の仕立てをしながら、主人の無事を願って暮しておりましたが、戦争は増々ひどくなり、警戒警報が発令になると防空壕に入り、夜は黒いカーテンを張って灯りが外に洩れない様にしたり子供を育てながらも主人の無事を祈る毎日の暮しでした。

   終  戦

 昭和二十年八月十五日、天皇のお声をラジオで聞き残念ながら我が日本は敗戦となり、遂に戦争は終わりになりました。ですが、戦時中は何もかもが、軍の為、軍の為と持ち物を供出しており、衣食には困窮し尚また不作もあったので、総べてが配給とか切符制で、何時までも不自由な思いが続きました。

   八町内の大火

 戦中戦後の苦難な時代ながらも一生懸命に働いてやっと自分の住宅を新築しました。主人は二度目の召集が一年余りで解除になり帰還しておりましたので、子供達も私も、これからは我が家だから何處にも引っ越しする事は無いと、家族四人が喜び楽しい暮しでした。が、それも長く続かず、新しい家に引っ越してたった七か月目の昭和二十四年六月十日、八町内の大火災が起きたのです。
 たしか四十六戸の商店や民家が全焼したと記憶していますが、私達は創成小学校の運動会を見に行って家は留守でした。真っ黒な焼け跡に帰って来て只々茫然としていました。
 これも運命と諦めるしかなく、又、自分で再起の道を進むしか無いと、世間の皆様にもお世話になりながらでしたが、主人は、倹約と努力をモットーにケチな生活をする事だと、子供達は新聞配達、私は行商など一家総力で働きました。

   夫の急逝

 小さいながら住宅を建てる事が出来て、主人は元通りに開業しました。娘も嫁に行き私達も銀婚式を迎えて、正月には本州方面に旅行に行って来ました。可愛い初孫もでき、幸せに楽しく過ごしておりました。しかし幸せは長く続かず、三十七年三月十四日、朝食後に来客があり主人は仕事を済ませてお茶を飲んでいましたが、ちょっと横になったとおもったら、それが最後でした。
 診察の結果は心筋梗塞との事でしたが、何の言葉もなく急に亡くなり、息子と二人でこれからの生活を考えました。息子は整復師になりたいと仙台の学校に行く事になり、私は保険会社に勤めて来ました。

   歳月を経て

 多種多様に苦労と喜びがあり、思えば誠に長い年月だったと思います。
 現在、子供達は、それぞれに自分で選んだ道を着実に進んでおり安心しております。私も八十二歳になりましたが、老人クラブに入会させて頂き、好きな踊りや大正琴などに一生懸命、皆さんと共に、励みを持って楽しく過ごしております。
 あまり世間に迷惑をかけない様に、一人静かに、お迎えの来るまで、一日一日を送りたいと思っています。

掲載省略:写真〜平成3年9月、敬老の日に、曾孫の涼太ちゃん、健太ちゃんに祝福を受けるキヨエさん

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子