第一章 開拓編 女性のくらし
九十年の追憶
成田 くにさん 九十四歳(栄町)
生い立ち
四歳になって間もなく父親が死んだ。明治四十年春の事である。それからは貧しい明け暮れ、昔風でいう口べらしのために七歳の時、他家へ貰われの身となったが、九歳の頃から子守りなどをさせられ、ろくに学校へも行かせて貰えず、何とかして字だけでも覚えようと、炉端の灰をならして、本を見ながら平仮名のいろはの文字を書いてはならし、書いてはならしながら習い覚えた。それも子供を寝かしつけた一寸の合い間なので簡単な漢字までがやっとで、その頃は学校で皆と一緒に勉強したかった事が、今も悔やまれてならない。
養女となった先の義父母は仲が悪く、よくけんかをしていたが、私が十歳の時に夫婦別れをして、義母が私をつれて増毛村(今の増毛町)阿分に出て漁場で働き、私も奉公に出たのが、上富良野に移り住むきっかけとなった。
結 婚
増毛村阿分の漁場で手伝いをしていた時、秋田県から春の鰊漁の出稼ぎに来ていた夫と知り合い、十七歳の春に仮祝言を挙げ、昔の事で結婚届も出さぬままにいましたが、やっとの事で戸籍をさがし出し大正八年、正式に結婚届けをしました。
翌年、美瑛の製麻工場で働くことで来ましたが、その工場もあまりよい賃金でなかった様で、その頃、上富良野にも新しい製麻工場(東洋製織活泱ロH場∧現中町三丁目二附近∨)が出来るので働かないかと誘われ、上富良野入りしたのが大正九年七月二十七日でした。
その五日後の八月一日は上富良野神社例大祭で、当時でも近隣の村々よりも賑わいを見せていました。今の銀座通りのあたりと思いますが、沢山の出店が並び夜になるとカーバイト・ランプを灯[とも]して客の呼び込みに声をはり上げる様子が、懐かしく思い出されます。
その頃はまだ、市街の中にも電灯はなくランプ生活でしたが、大正九年十二月八日に初子[はつご]の長女が生まれた五日前の十二月三日、市街に電灯がつき十ワットの裸電球でしたが、部屋中が明るく眩しく感じられたものでした。長女誕生の時、私はまだ数え年の十八歳で、現在だと若い母親といえますが、当時は十六歳ぐらいで嫁いだ人もありました。
水に悩まされる生活
昔から市街地周辺は水質が悪く、ポンプの鉄管を打ち込んでも、水量はあったが酸性が強く、その儘では飲めるものではありませんでした。当時の社宅にも水がなく、駅のそばの湧水を天びん棒で担いで四百b余りを運んで飲料水とし、洗いものは社宅の前を流れる島津用水を使っていました。
その後「こし桶」(大きな桶の底に棕櫚[しゅろ]を敷き、その上に木炭を入れ荒むしろを敷き更に川砂を入れ、それに水を汲み上げて濾[こ]す)を用いて飲料水にする様になり、これは町に水道が入るまで多くの家庭で続けられました。金魚などを飼うには、あちこちの湧水や深い井戸水を利用しており、市街の中では現在の高橋建設の附近、伊藤木工場(現柏木医院)上富良野神社、上富良野小学校などにあった井戸水が良質で、よく利用されていました。
悪水のためか、建設創業間もない二つの製麻工場(現在の中町三丁目附近と緑町一丁目附近にあった)相次いで廃業し私共も途方にくれたものでした。
山本木工場に職を得て
悪い事は重なるもので、そのころ夫が胃を病み寝込んでしまい、小さな子二人を抱えながら、山本木工場に臨時として夫に代って働きに出ました。夫が良くなってからは木工場に新しい機械の取り付けが始まり、夫は従業員に雇用され工場づくりに精を出していました。
社宅にも入り三人目の子、長男が生まれて二カ月後の大正十五年五月二十四日午後、十勝岳大爆発が起こりました。市街の中が誰の知らせか分からぬまま騒然とするうち、大木や土砂が泥流となって押し流されるのが眺められ、大急ぎで生まれて二カ月の子を背中におぶい、風呂敷を探すひまもなく前掛けに貯金通帳と印鑑、手元にあったお金をくるんで、六歳と三歳の娘を両手に引いて、近所の人々と高台へ避難しました。(今の日の出公園の方で通称成田山のあたり。)避難者は誰もが不安と恐怖で顔が青ざめ、お互いの無事を確かめ合っていましたが、夕暮れになり小雨が降って来て、いよいよ心細くなっていた所へ夫が迎えに来てくれ「市街は大丈夫のようだ、ひと先ず帰ろう」と、家族や身近かな人達と薄暗い小雨の中を市街に戻りましたが、また何かあってはと、山本木工場社長宅で不安な一夜を過ごしました。
明けて二十五日、泥流も治まり被災者の救出や死体の捜索でごった返していました。夫も捜索隊に加わり、木工場の板材で急ごしらえの下駄船を造り遺体収容に当たった様です。収容された遺体は現在の渋江医院の辺りに並べられていましたが、どの遺体も泥まみれで見るも無惨な有り様で、水洗いされた上で遺体の確認を行っていたのが印象的でした。
昭和の初期
十勝岳爆発災害の復興が村民あげて行われ、私共も平凡な毎日でしたが、五人目、六人目と続いて男の子をもうけてから、相次いで他からの貰い火で二度も火災に見まわれ、昭和八年に夫が自力で現在地に、材木を買って、ささやかな自分の家を建築しました。
地盤が悪く、土台が玉石のせいか冬に地盤が凍れ上がると戸が開かなくなり、つっかえ棒を挟まなければならない状態でした。それに建物も今の様な防寒構造ではなかったので、真冬は朝になると布団の襟が白く凍っている事がよくありました。暖房は薪が豊富だったので薪ストーブが一般に用いられ、寒い夜などは、火持ちをよくするため木の根株や比較的太いものをくべて、夜通し焚いていたものでした。
戦中戦後と夫の死
第二次世界大戦(大東亜戦争)に入ると娘達は挺身隊として被服工場などへ、又長男は十七歳にして海軍工廠[こうしょう]横須賀基地へ徴用になり、八人のうち四人が、それぞれ戦争にかり出され、小学生の小さな子四人との生活となりました。
すべての物資、食糧が統制で配給となり、昭和十九年本土が襲撃されるようになって、若しもの事があってはと、夜は子供達を農家の親戚へ疎開させ、家は私共夫婦で守る生活を二カ月ほど過ごした二十年八月十五日、終戦を迎えました。
散りぢりになっていた子供達も帰って来て、家族揃って戦後の苦しい生活を生き抜こうとしていた矢先、夫が持病の胃病が悪化し時折吐血するような状態の中で、食糧難ではありましたが、食事は家族とは別にし、白米と栄養の高いものをとらせ治療していましたが、昭和二十一年一月中旬に床に臥[ふ]してひと月後の二月二十七日、数え年五十二歳の若さで亡くなりました。私が四十四歳の時でした。
子供八人のうち長女が嫁いでいただけで、これからどうしたらよいものかと途方にくれた折も折、次男が旭川工業高校の受験を目前にしていました。父を亡くして学費の事などを考えたのか、次男は受験を止めると言いましたが、私は何とか一人だけでも進学させてやりたいと思い敢[あ]えて受験させました。
次男は通学の傍ら田畑の仕事を手伝い子供達が夫々[それぞれ]家の手伝いをしてくれたので、この子供達を支えとして頑張りました。
ひもじい思いをさせまいと田畑をつくり、食糧だけは充分に確保しました。豚や緬羊を飼い、緬羊の毛を紡[つむ]いで衣服や手袋、靴下を編んではかせたりと、戦後の物の無い時で、自家製のものが幅をきかせたのも此の頃でした。澱粉ともやしで「あめ」を作ったり、大豆を石臼で碾いて「とうふ」を作ったり、味噌も三年、五年味噌を作ったものでした。
市街の中で豚や緬羊を飼っていたので、今考えると悪臭やハエの多発生で、附近の人には随分、迷惑をかけていたと思いますが、当時はまだ公害などで騒がれない時代でした。上富良野に町制が施行された昭和二十六年頃、衛生的見地から市街地内での家畜飼育が禁止となりましたが、戦後夫に死なれ、大勢の子供を抱えていましたので、食糧としても又家計の一助としても、どんなに役立ったことか計り知れません。
老後のしあわせ
七十五歳の時、血圧で一時入院しましたが、その後は元気で暮し昭和五十四年には喜寿を迎えました。子供達も八人がみんな健康で、それぞれ一人立ちし平和に暮しており、私は生き甲斐として、夏は二反歩ばかりの畑を一人でこつこつ作り、秋の収穫が済んで暇になると娘達の所へ遊びに行くのが一番の楽しみでした。
五十三年には町より優良母子家庭の母親として表彰され、とても光栄な事でした。それからも元気で働き、老人の仲間と歌ったり、踊りをしたりと余生を楽しんでいました。(以上昭和五十四年発行「かみふ物語」より)
後年は、入院した折に回りの人に教わった手芸が趣味になり、文化刺繍のサークルに入れて貰い、八十歳を過ぎてから皆さんと一緒に町の文化祭に出品させて頂きました。それが何よりの楽しみで八十八歳まで続けていましたが、白内障で片目を患い、そして九十四歳になった平成八年の春に脳梗塞を患ってからは畑仕事もしなくなり、今は何するともなく週一回のディサービスを楽しみにしつつ、家族との暮しに感謝しながら一日一日を静かに過ごしている毎日です。(平成九年八月二十九日没)
掲載省略:写真〜昭和62年、町文化祭展示作品文化刺しゅう「翁」クニさん86歳の時。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子