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第一章 開拓編 女性のくらし

かみふに惹かれて

藤原 和子さん  七十二歳(丘町)

   生いたち

 私は中川郡美深町字恩根内市街地(北海道でも有数な雪の多い地)で、大正十三年二月十日に生まれました。私が八歳の誕生日に、母は三十六歳の若さで他界しました。それ以来、私は誕生祝をして貰った事はありません。
 父は久富熊雄、母はキクと言い家業は薬屋でした。薬屋と言えばお金持ちが多いのですが、明治生まれの父は、佐賀県より江別村に屯田兵として移住して来た頑固一徹な祖父母の間に生まれ育ったのですから、やたら血の気が多く正義感の塊の様な性格でした。薬代も、困っている人には「ある時払いの催促
なし」で、病気の人が薬を買いに来ると聴診器を当て「売薬では死ぬぞ」と言って遠い病院にかつぎ込み、入院費がなければ保証人になると言う調子で、人助けばかりしているものですから、母は家計が大変だったと思いますが、幼かった私と弟は何も知らずのんびりと育ちました。
 私が小学校四年生の頃には家業はストップ状態で、父は今の農協の前身である産業組合の常任理事として勤めていました。私も学校を卒業すると同時に十六歳で購買部事務の仕事につきましたが、後に農業会と名称が変わりました。

   結  婚

 私と同時期から、美深町農会に農産物指導技術員として勤めていた藤原利雄と、昭和二十年四月二十日に結婚しました。その頃は戦争も末期状態で物がなく、タンスはお古で、鏡台は今まで使っていた物と茶箱一つ分もない荷物で嫁入りしました。
 当時の私共の生活は、楽しい新婚なんてものではありませんでした。御飯ばかり食べていると十日と米が持ちません。それで朝は豆が沢山入った御飯とか昼は芋団子か水とん、夜はそばを作ったら良い方で、一日中、食事の仕度で頭をなやましました。よく客をお連れするので小さな鍋で何回も茹[ゆ]でなければならず、作るのが間に合わなくて大変でした。終わって見れば私の分がないなんて事はしょっちゅうで、そば粉がなければ澱粉で蕎麦状に作りました。

   美深離町

 昭和二十六年に夫の学生時代の先輩が、上富良野村共済組合に行かないかとの事で、私は美深生まれの美深育ちで寒さも雪も苦になりませんが、十勝で生まれ育った夫は、大雪と吹雪に閉口していたので迷っているうちに突然、上富良野から松浦組合長さんが話を進めに来られました。
 その頃は役場の農政課に勤めていたので、慌てて町長に事情を話し「了解して頂きたい」と申しました所、町長は驚かれ「二年だけ待って」その後は君の納得のいく職場をお世話下さるとの事で大変有難いと思いましたが、父が「町長に君を説得してくれと頼まれたが、男が一度辞めると口にした事は金とか地位に動かされるものではない」の一言で、上富良野行きが現実となりました。

   新天地上富良野へ

 昭和二十六年四月六日、夫は十一年間、私は二十八年間住み慣れた美深を後にしました。その頃には長女、長男が生まれていました。思い出しても赤面するのは、美深の町長さんが、私共の古びた今にも壊れそうなトランクを、汽車の中が込んでいたので旭川までずっと持って下さった事です。
 上富良野駅のホームに降り立ち目に入ったのは、殆ど雪が解けていた事と、駅の裏側は家も少なく陸橋もなくて、随分淋しい街だなと言う心細さで胸がしめつけられ、ふと美深で親しくしていた皆さんの顔が思い出され懐かしさに涙がこみ上げてしまい、子供達に見られない様に慌てて顔をそむけたのを昨日の事の様に思い出されます。二人の子供の手を引いて歩き出した時、共済組合の西獣医さん、松浦組合長さん、山中一正役員さんが笑みを浮かべて迎えに来て下さいました。三人共今は亡き人になって淋しい限りです。
 その夜は伊勢屋旅館に一泊し翌日、聞信寺の隣に佐藤芳太郎さんの持家があり、一時その家に落ち着く事になりました。夕方になると長女に「いつ美深に帰るの」とか「あのお月様、恩根内のおじいさんも見ているね」と言われ、部屋の隅で泣きました。でも、近所の皆さんが親しくして下さり、役員の方々も良く訪ねて来て下さるので、この土地に慣れるまでそう長くはかかりませんでした。
 美深しか知らない私は十勝岳の美しさに見とれていました。雪も少なく「今年は雪かきに追われる事もないな」と考え、この地に来て良かったと思う様になりました。只、水が悪く、お茶が黒くなり洗濯物が赤茶けて来るので困りました。
 井戸がお寺の横の道端にありましたが高所恐怖症の私は、のぞくと足がすくみ水汲みが出来ません。夫や近所のお子さんにお願いしていましたが、何時までもこうしてはいられないと意を決し、ヘッピリ腰で汲み上げると四、五回で慣れました。
 その年の八月に現在の「さちこ美容室」の所にあった泉川代書屋さんが引っ越され、その家に住む事になりました。そこで次男が生まれ、長女が六歳で幼児糖尿病になり小学三年生の十一月二十日、つらい闘病の末命を終えました。その後次女が生まれ、喜びと悲しみが交錯して私の一番重い時期でした。
 その頃、今のダイイチスーパーの向かい側に上富良野劇場があって、長女の生前は皆でよく映画を見に行きました。今の山崎建設さんのあたりは草が茂っていて獣道の様な細い道があり、親子四人でその近道を通ったものでしたが、今は悲しい思い出になりました。

掲載省略:写真〜平成7年11月3日文化の日に自治功労賞を受賞した夫利雄さんと和子さん(編集注〜藤原利雄氏は昭和40〜46年上富良野町助役を勤められた)

   上富良野の生活

 その頃には食糧事情も良くなっていましたが、収入が物価に追いつかず、軒並に奥様方が、畑仕事や水田の苗植えのアルバイトをしていました。私も、経験もないのに皆さんに連れて行ってもらい、慣れなくて迷惑を掛けましたが、今思い出しても恥ずかしい事でした。
 振り返って見ると波潤の多い人生でしたが、年を重ねて七十歳半ばに差しかかり、まだ何が起こるか分かりませんけれど、人生の終えんを迎える時、息子や娘、孫達に囲まれて「余り波瀾の多い人生にならない様に心掛けなさい。ばあちゃんもあの世で、お前達を守るからね」と言って、祖父母、父母、長女優子の待っている天国へ静かに旅立ちましょう。いつの日か…。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子