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第一章 開拓編 女性のくらし

虎杖[いたどり]を燃して

五十嵐 春江さん  七十歳(東町)

   裸電球の下で

 大正十五年一月二十六日、父松本嘉一、母タカヲの四男二女の長女として、現在の富良野市東山西達布すみれに生まれた。
 祖父は愛知県東春日井郡高蔵寺村から石狩郡石狩町大字生振[おやふり]に渡道し、その後西達布に入植して昭和四十年西達布開拓五十年の時の開拓功労者であった。
 子供の頃は家の手伝い、弟や妹の面倒を見ながら、現在の西達布小学校を卒業した。戦争が始まり兄が戦地に行った為、私も遊ぶこともなく働き、農閑期は近所の子守り奉公などをしていた。昭和二十年の年は、大凶作にあい米はとれなく収穫は皆無であった。
 昭和二十三年三月二十三日、日の出六(現在西日の出)で水田農業を営む五十嵐三郎、三十二歳、私二十三歳の時結婚した。姑はよく東山のお寺参りに行っていて、そこで知り合った友達が仲人ばあさんであった。母もお世話を頂いた方なので母子二代に亘って仲人をしてもらい嫁いで来た。夫は次男だったが、両親との同居であった。
 水田四町歩あったが、兄、夫、弟二人の四人が出征していたので、土地は荒れ放題で、それに十勝岳爆発による被災地のため、私の住んでいた西達布の土地と違い土は固く、代掻きの時は馬の蹄[ひずめ]が減り出血して田圃の水が赤く染まる程で人も馬も大変なところであった。
 飲み水がないので水汲みに大変苦労をした。近くの川からバケツに水を汲み上げ天秤棒で担ぎ土堤迄上[のぼ]って来ると重くて水は零[こぼ]れバケツの水は半分になってしまい、それでも一日に何回も汲み上げて来て二斗桶や鉄瓶に入れた。雨の日は川の水が濁[にご]るので飲む事が出来ず、溜めておく桶も無く困ったものであった。
 戦時中の昭和十七年に矢野辰次郎さんが農村電化の期成会長となり、久野さん達の働きによって余所の部落より早く日の出地区に電気が引かれ、夜業に裸電球の下で繕いものをした。足袋作り、つぎはぎだらけの足袋、すり切れるのはあたり前で、原形がなくなるほど、つぎを当てて、つぎについでいく、まるで刺子みたいに……。当時の住まいは葦[よし]で造られた家だったので、雨の日は水びたしになるのでバケツ等で雨もりを防いでいた。
 結婚したその年は、籍が入っていなかったので、私の配給物は一年間もらえず食糧もなく本当に苦しかった。何もない困窮[こんきゅう]の生活の中で、朝早くから田圃に出て、夕方になっても手先の見える間は夫と二人で毎日黙々と働きつづけた。食糧は勿論なかったが燃料もなく、流木を拾ったり笹の根や虎杖[いたどり]を刈って乾燥させては燃料にしていた。その頃のことを思うと今でも道を歩いていてどんな小さな木でも拾い、もったいないので風呂をわかす時に燃やしている。
 除草時期に始まり稲刈りが終わるまでずっと田圃に入っていた。機械はなく、手袋もなく、金もなく手の爪もなくなる程減った。それでも全然休むことも出来ず、青年の運動会などには、道行く人に、「応援に行かないと日の出は負けるぞ」「うん、今行く」と言いながらも、町の祭り、部落の会合などにも行かず一生懸命働いた。
 稲刈り時期になると暗いうちに馬草を刈り、明るくなるのを待って稲刈りに出て、隣の人には「あんた達二人はいつ寝て、いつ起きるのかわからん」と言われたが、二人の手しかなく、徹夜で脱穀したこともあり、それでも反当三俵から三俵半の収穫であり、供出米には悩まされた。田圃の土が悪く米がとれないので一部を畑にして芋、南瓜などを作付し、南瓜だんごをよく作った。
 私が嫁に来た時、姑に言われたことは「親に何を言われても『はい』と返事をすること。そして一生懸命に働け」と言われ、当時は誰もが強いられて生きて来た時代だったが、私は嫁として素直にその事を守って辛抱するしかなかった。しかし、烏の泣かない日があっても私が泣かない日はなかった……。そう言っても決して過言ではない日々の生活だった。
 昭和二十五年、舅が老衰のため七十八歳で亡くなり、その前の一か月間は寝たきりだったので当然看病をしたが、舅は私のことを分かっていてくれて「嫁に看病してもらって有難い」と言ってくれた。このことが何よりも嬉しかった。また姑は老人会でいしずえ荘(登記所に使用されたこともあるが古い建物で富良野線各町村共有の文化財である。老人憩いの場に利用していた。現在の本町一丁目)や友達と温泉などに行くとかならず次にもって行く食べ物を約束して来るので、出掛ける時はぼたもち(おはぎ)、赤飯などを用意して持たせたり、冬は雪撥[は]ねをしながら駅迄送ったり、帰宅時には橇[そり]や一輪車で迎えたりもした。その姑も昭和四十八年八十八歳で亡くなったが、息子二人を戦争で亡くし、その心情は悲しみが多かったと思う。

   東明区に住んで

 昭和四十九年に、上富良野町営住宅用地として所有地全部が買上げになったので、杉本輝男さんより土地を譲りうけ、姑の三回忌をすませた四月上旬、現在地に転居し一年間は通い作をした。その当時の東明区は奥に自衛隊の官舎はあったが、民家はぼつぼつと五戸だけであり、寂しい所だと思った。
 当時、近所に住んでいた橋本茂夫さんに「この付近はこれから住民が増えると思うので町内会を作ろう」と言われ、五人で東明三の町内会を作った。それが東明住民会の始まりであった。
 夫は北海道上富良野高等学校に警備員として働き、また各要職も受けた。最近は好きなダンスで人生を楽しんでいる。私も夏は小玉青果、桑田商店などで働いたが、今はうどん作りや余り布でミニの丹前、前かけ、おて玉、ラベンダー帽子作りなどをしている。これからも二人で旅行して共に元気に生きて行きたい。子供は一男四女に恵まれ、四女(義江)は同じ上富良野町に住んでいるので心強い。

掲載省略:写真〜春江さん手づくりのミニ作品

 遺族会で毎年靖国神社参拝を行っているが、私は昭和六十三年、平成六年、八年の三回参拝をして実兄、義弟の冥福を祈った。八年の参拝の折には畑で収穫した大豆を重いながらも風呂敷に包み持って行き靖国神社の鳩にあげると、たくさんの鳩が集まりおいしそうに食べていた。今後も元気なうちは参拝を続けて行きたいと思っている。
 この地区も最近は住民も多くなり、温泉が出てフロンティアフラヌイ温泉が建ち、東明児童会館、ゲートボール場、チビッ子広場、そして日の出公園が近くにあり、夏はラベンダー祭り、冬は「北の大文字」などのイベントが行われ賑わいを見せている。また、今年からオートキャンプ場の造成が始まっており、この一帯は観光地としても今後更に発展して行くと思う。

掲載省略:写真〜靖国神社参拝の折り持参した大豆をハトに与える左から二人目春江さん(平成8年11月)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子