第一章 開拓編 女性のくらし
九十四年を生かされて
田中 さいさん 九十四歳(宮町)
私は、三重県桑名郡古美村字古野(現多度町古野)と言う鉄道のない片田舎で、父水谷甚五郎、母しずの長女として生まれました。妹や弟の面倒を見ながら漸く小学校に通い、やっと卒業させて貰った頃、二年程前に北海道へ移住していた叔父に誘われるまま、先祖伝来の土地を離れて北海道へ移住することになりました。
三重県からの渡道
祖母を含めた私達一家は、まだ肌寒い北海道空知郡上富良野村江花(現在千望峠の南方)西七線北二十二号の畑二町と未墾地三町歩の畑地に入植することになりました。
前住者が居住していた小屋はありましたが、重粘土地の為に耕作するのには随分苦労していたようで、それに飲料水が無く、四百b程離れた隣の家から貰い水をしなければならないと言う悪条件が付いている所でした。差し当たりその水汲み役が私の仕事となり、春になると熊が出ると言うので、大変な所に来たものだとがっかりしましたが、もうあとの祭りで誘ってくれた叔父も責任上何回となく井戸掘りをしてくれましたが、どうしても水脈に当たらずとうとう諦めてしまいました。
せめて風呂だけはと、裏の沢水を堰[せ]き止めて、汗を流していましたが、干天の日が続くとさあー大変、隣の家や遠い叔父の家まで提灯を持ってもらい風呂に行かなければなりませんでした。そんな状態の生活の中でこの年も暮れようとした或る日、あれ程に移住を嫌がっていた祖母を、失意の内に病死させると言う悲しい出来事がありました。
島津に転住・そして結婚
二人いた妹の一人が小学校を卒業したので、私も一廉[ひとかど]の働き手として男同様に重宝され、父と一緒に農作業は勿論、冬期間も山小屋に泊まって薪作りに精を出していました。そんな中で除虫菊や赤豌豆ブームの波があり、出面に駆り出されて思わぬ小遣いをもらった事もありました。
叔父が澱粉工場に失敗して、原野に引っ越して行き、その後を追うように島津農場の小作株を買って、水田農家になる事が出来ました。江花にいた時は水で泣かされましたが、島津は富良野川に沿った所だったので、今までさんざん苦労して来たことが夢の様な気がしました。
そんな或る日、一緒に水汲みに来ていた弟が、氷の割れ目から落ちて流されそうになったのですから一大事、必死になって引っ張り上げましたが、それもそのはず、女ばかり産んでいた母が七番目にしてやっと生まれた後継ぎ息子で、新入学をみんなで楽しみにしていた矢先の出来事だったからです。
島津に住んで三年程たった頃、日の出の久野春吉ご夫妻の媒酌で田中与市と結婚することになりましたが、その時に仲介の労をとって下さった奥様が、いつも乗馬姿で来られたのにはみんな吃驚していました。
爆発に遭遇、そして二度目の開拓
結婚後は久野さんの田を借りて耕作し、二年目にあの忌まわしい十勝岳の大爆発に遭いました。代掻きの最中でしたが「山津波が来るぞー」と言う声がどこからともなく聞こえて来たので吃驚して、先ず主人が馬の装具を外す暇もなく家で眠っていた子供を抱きかかえて馬に乗り、私は泥着のままで二十六号の蝶野さんの山へ逃げました。山へ着いて振り向いた時には、もう泥流が川沿いに押し寄せて来て、際どいところで助かったものと、今思い出してもぞっとする一生一度の大きな出来事でした。
家も田畑も流され跡形もなくなってしまったので久野さんの家に厄介になりながら流木を片付けたり畑の賃仕事をしながらその日暮らしをしていましたが、十二月末に大正天皇が崩御され、昭和へと年号が変わり、すぐに昭和二年の正月を迎えました。
天皇の服喪中の事でもあり、あまり明るい見通しのないままの生活でしたが、雪が解け出す頃には災害復旧の工事が始まり、労役者として働くうちにその年も暮れ、私達は水谷家と同居して水田耕作をする事になりました。丁度その頃、被災農家に御料地が払い下げられたので、冬の間は山林地の伐採をして、春には開拓事業に従事し、私は一生に二度も開拓に精を出さなければならない運命に遭いました。
掲載省略:写真〜弟、甚四郎結婚の折に弟妹たちと中央さいさん(昭和9年3月9日)
現在地に定住し通い作
昭和五年に入って、市街地の伊藤勝次さんに勧められ、当時郵便局長の河村さんの土地を借りる事になり、ここを定住地にして、御料の開拓地を通い作しながら初めて本格的な独立農家となりました。その年は珍しい豊作で米は沢山穫れましたが、何しろ年貢米を三十七俵も納めなければならず、相変わらず惨めな生活しか出来ませんでした。
一方御料の開拓地も殆ど畑地とはなりましたが、何しろ遠隔地で往復するのに二日間もかかり、とても生活の足しにはなりません。せっかく汗水流して働いて収穫した作物を売るにしても、今のように便利な車もない時代で馬車に頼るしかないのです。山坂を越えての搬出は並大抵ではありませんでした。
両親の死亡・そして戦争時代
昭和六年、夏場だけは主人の弟や実家の弟の手を借りながら働いていましたが、水田の収穫作業は機械作業となるので、それぞれの家で泊まりながら共同作業を続けていました。いつもは必ず家に帰っていた弟がその日に限り妹と交替した夜に、かねて胃腸を患い床についていた父の容体が急に悪化し、母と妹に見守られながら淋しく冥土へと旅立ってしまう結果となり、残念な思いをしました。その実、私も二、三年の問に長女と長男を病気で亡くし、重なる不運に悲しみのどん底状態で涙をぬぐう暇もない有様でした。加えて昭和六、七年と凶作が続き、収入も少なく貧窮は続くばかりで食うや食わずで過ごしていました。そんな中にも次女・文子が生まれ、次男・勝が生まれ丈夫に育ってくれたのが、ただ一つの光明でした。
その頃は、御料の開拓地も畑地となっていたので、たった燕麦三俵の年貢で他人に貸していました。実の所、肝心の水田地は酸性水に加えて粘土質で湿田が多く、作業は捗らず、従って収穫も少ないのに年貢米だけは取り立てが厳しく、主人も地主との交渉には随分悩まされた様でした。
そんな中で昭和六年に起きた満州事変をきっかけとして、上海、北支、日支事変から大東亜戦争へと戦局は拡大する一方、徴兵、微馬、食糧増産、生活用品の配給制など私達は困窮するばかりで前途多難な毎日でした。昭和二十年八月、敗戦となり胸をなで下ろす暇もなく、肥料と日照不足で大凶作となり貧乏は度を増すばかり、飢餓に悩んで暗取り引きが横行しましたが、私達農家は何とか自給自足で暮らすことができました。
唯一私達を喜ばせてくれたのは、マッカーサー司令による農地開放で小作農家が一転して地主になれると言うので、鬼の首でも取った様な思いがけない大革新時代が訪れた事でした。しかし、地主になったからと言って急に生活が楽になるものではなく、子供は増えるは、物価は上がるはで貧乏暮らしはもう限度を越えてしまいました。
暗黒から光明へ
警察予備隊が発足して間もなく、自衛隊と名称が変わり、当町にも駐屯地が誘致されて十勝岳山麓が
演習地となり、ボツボツと市街地にも潤いが出はじめ、市街地に近かったせいか、我が家の田圃が小玉病院に買い上げられ金銭的にも幾分余裕が出来たので、家を建てたり子供達の身を固めさせたりして明るいきざしが見え始めた頃、あれ程騒がしかった暗米も影を潜めて、米余りとなり減反制度に逆転する結果となったので、それを機会に息子達は離農し建築関係の仕事を始めました。
道々沿いの土地なので年毎に住宅用地として買って下さる方が増え家族共々「ほっ」と一息ついた頃、五十年以上も苦労を分かち合って来た主人が、病気には勝てず死別する結果となり、もう二十年以上経ちましたが、主人の遺言でもあった真宗高田派の本仏壇を求めて安置することが出来て、肩の荷が下りた思いをしました。
それから数年、現在の家を新築し思い出の仏壇を背に赤装束に身を包み、四男三女孫三十人の外、血族縁戚一同の集まる中で米寿のお祝いをして貰い思いもしなかった幸せに感無量でした。
掲載省略:写真〜さいさんの米寿を祝う。弟妹、長男夫婦と(平成2年1月5日)
二度に亘る開拓生活を通して、悲喜こもごもの九十四年の長い人生行脚、書き尽くせない自分史の一端を述べて「何かのお役に立てば」 と念じています。
それにつけてもいかに時代の流れとは言え、貧乏なばかりに病気になっても充分な治療も看護もしてやれずに、まだ五十歳だった両親や妹、また四人の子を残して僅か四十二歳で死別した妹の悲しい運命など、思い出すのも切ない気持ちで一ぱいです。この様に先立って逝った両親のお守りのお陰でこの齢まで長生きさせて貰った私の務めとして、出来るだけ子供や孫達に読んでもらいたいと思っています。
私も昨年の暮れ、ふとした過ちから骨折と言う憂[うき]目に遭いましたがお陰様でもうすっかり良くなりましたので、欲張り婆さんと思われるかも知れませんが、これからの日々も神、仏におすがりして生きて行きたいものと、合掌、念仏に余念のない今日この頃の私です。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子