第一章 開拓編 女性のくらし
市街地
上富良野の市街地は、明治二〇年の植民地選定としてその後の区画設定の中で、十勝線(現在の富良野線)の鉄道敷設計画がされ、経路案は十勝国道線が予定された東中路線と植民区画基線経路(現在の路線)の二つ、駅についても最も人口の多い草分地区、当時開墾が早かった東中地区、現在の場所の三カ所が候補として検討されたようだ。十勝線の路線がどの経路をとおり、どこに駅が設置されるか、入植者にとって期待と大きな関心事だったが、明治三二年になると鉄道予定線がほぼ確定したため一挙に現在の市街地周辺への入地が進んだ。
明治三二年九月一日旭川〜美瑛間、一一月一五日には美瑛〜上富良野間、翌三三年八月一日上富良野〜下富良野(現在、富良野)に鉄道が開通し、札幌から旭川経由での上富良野への交通が完成した。鉄道の開通によって急激に人口が増えると同時に、仕入、小売りを専業に行う者が店を構えたり、商工業営業を目的に入地する者など、また上富良野駅が開業するとまずこの周辺にこれらの店舗が集積を始めた。そして地域にも集落ができ始めると、この集落を結ぶ道路網ができて要衝沿道部分も商工業を営む店舗が広がっていった。一方、住民が急増するに従って行政機能も頻繁に必要とされ、歌志内においていた戸長役場を分離し、明治三二年六月二五日に上富良野に仮庁舎を建て独立した。翌三三年には東一線北二五号(現在本町一丁目)に役場庁舎が新設され、大正八年四月一日には一級村制施行と同時に同場所に村役場庁舎を建設し、昭和四二年に現在地に移転するまで使用された。この時から経済機能が中心の駅周辺と、行政機能が中心である戸長役場の二カ所が、その後、町の発展の中心となって大きく動いて来たのだった。
役場周辺の主なものを挙げると、明治三二年一二月一日富良野郵便局(分村後は上富良野郵便局)三五年三月三日上富良野神社、同年七月一日上富良野尋常高等小学校、三七年四月一日巡査駐在所ができ、その他に将来の市街地を見込んだ商店も集まり、この線路東側に形成された市街を旧市街と呼び、一方、経済活動の中心である駅周辺にも農産物や木材出荷、生活、生産資材入荷の拠点としての位置づけで、雑穀商や商店が集積を始め、その後、西側に急速に形成された地区を新市街と呼んでいた。
また市街地の商業地区の形態は昭和初期までにほぼ現在の形になったが、戦中、戦後を経て商工業にも世代交代や衰退、興隆の歴史がある。
老舗として、丸一十字街と言われる中心部は金子庫三(本町における商業の元祖)が幾久屋と言う屋号で呉服、荒物、雑貨、精米、米穀等の総合的経営をしたのが現在の呉服店(平成九年六月宮町へ移転)の西角である。明治三七年に駅前にはフクヤ雑貨店が開店し、当時の役場収入役福屋新の経営で僅かに位置が変わったが現在に至っている。
昭和二〇年の終戦からの復興期をはさんで、三〇年の陸上自衛隊の駐屯、四〇年前後からの農業環境の変化、人口の減少、住宅地域の変化等人口の町内移動が起こり、生活、経済環境が大きく変わって来た。かつては市街地住民が買物をする中心となっていた商店街だったが、各地区中心に大型小売店舗が開業するなど地区住民の新たな日常商圏が形成された。また特徴的なことは、鉄道西側にあった中心が現在では東側に移って来たことでもある。
時代と共に更に変わり、保養、行楽、娯楽、文化、教養、交友、そして車社会の進展と同時に人々の生活意識も変わり、日常的な行動目的が本当に多様化して来たと言える。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子