第一章 開拓編 女性のくらし
私の生い立ちの記
三橋 とみさん 八十九歳(東中)
幼少の頃
私は青森県で生まれ少女時代を過ごしましたが、十歳の時に弟二人妹一人と共に父母に連れられて中富良野村に入植しました。それは中富良野村の村長さんが青森県出身で、大変面倒見も良く、同県からの入植が大変多いという話を、父は人伝えに聞いていたからでした。
十二歳になった時、近くの農家へ子守りに出されましたが、約束とは違う農作業ばかりさせられました。大人に混じって、見様見真似で仕事も直ぐ覚え、一人前に近い働きをしたので、そこの主人には何度も「年を隠しているのではないか」と言われました。そのため夏の間は殆ど学校へ行けず、冬の間だけ通いやっとの思いで六年を卒業しました。その後は毎日が働きづめで、家の手助けになるよう一生懸命でした。
結 婚
私が十七歳になった春、農作業が手早く上手だと言う事を見込まれ、夫三橋直市と結婚する事になりました。私は十人兄弟の長女で、主人も七人兄弟の長男でした。当時三橋家は、長女次女は既に嫁いでいましたが、弟二人妹二人、義父母と私たち夫婦の八人家族でした。
昔の農作業は全てが人手の作業で、鍬で田の土を掘り起こしましたが、これは徐々に馬耕に変わって作業も少しずつ楽になっていきました。次に田に水を入れて代掻きをし、土が落ち着くと、たこ足で籾まきをしました。この作業は天気の良い日に行うのですが、晴れた日の朝から、カチャン、カチャンと音を響かせ乍ら、田の中を一歩一歩進んで行く様子は誠に長閑な風景ですが、機械に籾を入れると可成りの重さになるので、静かに歩かなければならず、背中や腰に負担のかかる仕事でした。この作業も徐々に移植する方法に変わっていきました。今も昔も変わらないのは雑草との闘いで、水田五町歩を耕作するには、四、五人の人手が無いと充分な除草作業は出来ませんでした。
こうして迎える秋には収穫作業が待っています。稲刈りは鎌で刈り取り、束ねて田に立て、ある程度乾いてから集めて稲架けをし、籾の部分を乾かし、一週間程して納屋に入れるのですが、天気が相手の事ですから、雨の多い年は大変苦労しました。納屋で脱穀調整し玄米にして出荷となりますが、この作業が一段落すると、間もなくお正月になりました。
暫しの休養の後は、寒が明けると女達は藁仕事を始め、俵編み、縄ない等、冬中毎日の作業のため、手の一部がすりへって血がにじんだり、赤切れが絶えませんでした。男達は、薪山を買って木を切り冬の間に運び、小さく割って冬の暖房用、夏の炊事用にするための仕事に追われていた様です。こうした事が水田農家の一年の仕事ですが、四季折々に細々と雑用があり身体の休まる事はありませんでした。
こうして中富良野の鹿討農場で頑張ってきたのですが、より良い農地を求めて、大正末期に東中安井農場という小作農地(現在地)に移住することになりました。ここがその後、七十余年に亘り私共の安住の地となったのです。
子育て
結婚して丸二年目の春、長男を出産しましたが、その後この子育てが延々と二十余年に亘って続くことになりました。長男が大正十四年に生まれ、末娘が昭和二十年七月に生まれるまで十人の子を生み、この間男の子を一人麻疹[はしか]で亡くしましたが、男六人、女三人の子は現在も元気で暮らしています。現在農家を継いているのは三男で、他に就職していたのを止めさせて農業を継がせたのですが、先行き厳しい今日では或は失敗だったのではと申し訳なく思っています。しかしみんな親を大事にしてくれますので、心から感謝しています。
舅・姑の事
舅は短気でしたが理解のある人で、私の産前産後には「姑に何を言われてもじっと我慢して充分体を休める事が大切だ」と言って休ませてくれました。今にして思えばこの事が長生きの基だったのかも知れません。また舅は生前お寺参りをする人でしたが、姑は好きではなかったのか、距離的に遠い事もあってあまり行かなかったようです。また決して人を疑わず、昭和二十三年に亡くなりましたが、死んで行くのに何のためらいも無く安らかに浄土へ赴いたものと信じています。
姑は何を言うにも命令口調で腹のたつ事もありましたが、私は口答えはしませんでした。舅にも絶えず横柄な口のきき方をする人で、私の子供達をあまり可愛がる事もなく、しばしば口論することもありました。また足腰の丈夫な人でしたが、九十一歳の時に脳溢血で倒れ意識不明になり、五日間程で意識も戻らぬまま亡くなりました。姑が舅亡き後、近所の老人達との話の中で言っていた事から考えると、一人でいかなければならない黄泉[ヨミ]の国に、不安と恐怖を感じていたようですが、姑の死顔を見た時は舅のいる浄土へ招かれたのだと思いました。
夫の事
私の夫は物事にあまり拘らないあっさりした性分の人でしたが非常に短気な所もあり、子供達を頭ごなしに怒鳴りつけ、無理な事でも平気で押し付けたりする事もしばしばで、その大声は東中中に聞こえると言われた程でした。それも封建時代の風習をそのまま受け継いだ名残なのでしょう。外出する時も、頭の天辺[てっペん]から足の先まで用意してやらなければ出掛けられない人でした。二人で外出する時は、夫の事をし更に自分の仕度をしなければならず、少しでもおそくなると外から何度も怒鳴られたものです。唯一救われた事は、酒・煙草を嗜まず「煙草を吸わない者は落ち着きがなくて駄目だ」と言って時々吸っていたようですが、性に合わなかったようです。酒も何かの席では多少飲んだようですが、二次会に行くとか家に帰って飲み直すと言う事は全くありませんでした。現在はつまみを食べながら養命酒を少しずつ飲んでいます。腹を立てる事もなく、今ではすっかり好々爺になりきっています。
子供の就職の事
九人の子供達は、一人一人の性格も違い、体格、技術面にもそれぞれ個性があります。各自の個性を生かした職業を選んでいる場合と、逆の場合もあり親のアドバイスが悪かったのかなと思いますが、それぞれの職業を全うした者、まだ全うしつつある者と親として心から喜んでいます。今迄には私達夫婦の金婚式、喜寿、米寿の祝い等はかかさず盛大に祝ってくれました。心から感謝しています。夫は白寿まで元気でいたいと常々申しており、私もこれ以上望むものは無く、ただ一日一日を大切に生きていきたいと思います。今迄誰にも話した事もない姑、夫について披瀝[ひれき]し内心ジクジの思いがありますが、お許し願う事にして……。
「夫婦揃って長生きの秘訣は何か」などと聞かれる事がありますが、これが絶対というものはありませんが、気をつけている事は食事は何でも好き嫌いしないで食べる、規則正しい生活をする、暴飲暴食をしない、体力にそぐわない不眠不休は避けると言った事でしょうか。
この先、いつ迎えが来ても、不安・恐怖を感じないように聞法[もんぽう]に心がけたいと思っています。
(平成九年十一月七日没)
掲載省略:写真〜夫直市さんと旅行、日光東照宮に参拝の折、「みざる・いわざる・きかざる」をバックに(昭和55年頃)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子