第一章 開拓編 女性のくらし
母を想う−いばらの道
岩崎 トメノさん 七十四歳(東中)
昭和五十八年、母は百二歳と言う長寿を全うしてこの世を去りました。
十七歳で、十八歳年上の父と結婚し四男四女をもうけましたが、父は若くして中風になり、その後十四年間の長い闘病生活が続き、母は四十五歳にして未亡人となりました。貧しい暮らしの中で人生の大半を、明日を夢みて頑張って生きた母の生涯を、私の知っている限り「母」その面影を偲びながら書いてみたいと思います。
福島県より開拓者として中富良野へ
母の名はミツ、福島県中村原ノ町で、四人きょうだいの島家に生を受けました。「貧乏はしているが士族なんだよ」と母は言っていました。家は蚕[かいこ]を育てながら普通の農家であった様ですが、父は今で言う町議の様な役職をしていたので、余り家を顧みず人のお世話に走り歩き、段々と生活にも余裕がなくなっていました。
その頃、北海道の話が持ち上がり、兄姉達とひと足先に来ていた村田さんを頼って、当時のお金で十三円を手に明治三十年頃、中富良野奈井江に未開の畑を借り受け入植したのでした。
余り働いた事のない父は無理がたたったのか健康を害し、母が一人で働く事が多かったと言います。住居は土間で、入口はムシロを下げた藁屋根の掘っ建て小屋で、雨や風、雪が入り「こんな所なら福島の方が良かった」と嘆いていたそうです。
苦労と襲って来る不幸の中で
「働けど働けど楽にならざりじっと手を見る」の諺[ことわざ]ではないけれど、女手一つで子供や病人を抱えて、いくら勝気で男みたいな強気な母でも並大抵ではなかったと聞きます。でも十七歳の頃より好んで吸っていたと言うタバコだけは死ぬまで止める事はありませんでした。「早く白い御飯を食べさせたい」の一念で働きつづけたと言うけれど、ヒエ、キビ、麦が食べられれば良い方で、中々白い御飯には手が届かなかったのです。
そんな折、悪性の風邪が大流行して、一週間に二人の子供を亡くしたのです。その時の心境を語ってくれた事があるけれど、辛かったのであろうか二度と聞く事はありませんでした。今と違って保険制度も医療機関もない時代、思い出すことさえ胸に迫るものがあります。
その頃、水田地帯に入植していた人のお世話で、高橋孫四郎さんより水田を借り受け、お金も都合してもらい、二町五反の水田小作として二線十四号(中富良野)に落ち着いたのです。ここが私と二歳上の姉が生まれた故郷なのです。しかしきょうだいが次々と亡くなり、残ったのは私達女ばかり三人になってしまったのです。
この頃になると父が少し快方に向かい杖を頼りに自分の用と、私の子守りが出来る様になったのです。水田作りも思うようには行かず、反収三俵か四俵位で年貢は六斗五升とか、飯米を引けば赤字で借金もあり苦労は続きましたが、お蔭で白い御飯は食べられる様になったのです。病人を抱え幼子を育て、馬を使いこなし懸命に働いたであろう母、生きんが為に命の限り頑張った母でした。
掲載省略:写真〜母ミツさん100歳のお祝いの日に(昭和56年3月)
苦労の末、見え出して来た光
父が他界した三年後、上の姉に婿養子を迎える事が出来たのです。秋田出身の人で、同じ秋田出身の小松田さんと言う人のお世話でした。母は「こんな貧しい所へ良く来てくれた」と喜んだと言います。また義兄は仕事一筋の働き者で、外に働きに出ても人の倍もお金をもらって来る人なのです。水田も次々と借りて増やし、少しは楽になり、一切を任せてホッとしたのです。
当時の私は小学校に入学し、母は自分の無学を残念がり、学校だけは休まず行く様にと、末っ子の私には良く言ったものです。母も身体に余裕が出て来たので、小遣いを得るのに余所様[よそさま]で働く事も出来る程になりました。お寺詣りや、また少しの楽しみも出来て、暇をみては私にお経を教えて欲しいと言って暗記したりしていた事などが、今は懐かしい想い出です。申し訳ないけれど父の事は全然記憶にないのです(私が五歳の時に他界)。明治、大正、昭和と、苦労と汗に塗[まみ]れて生き抜いた強い母、その姿が私の頭より離れる事はありません。
女だけの留守家族
戦争が始まり我が家の義兄も召集されました。私は学校卒業後、中富良野農協に勤めていましたが、この頃が私にとって一番充実した毎日でした。当時三十三円のお給料ではあったけれど、母にとっては最初で最後となってしまいましたが九州旅行に行ってもらったのです。振り返って見ますと私から母への一番大きなプレゼントとなりました。しかし日の目を見る様になったのも僅かで、私も農協の勤めをやめて姉と母と三人で農作業をする事になったのです。
借り受けた水田も広くなり、姉は馬を使い、また年をとった母も仕事を懸命に手伝う様になったのです。筵[むしろ]を背負い、殻竿や一升瓶に水を持ち、四`程もある畑に通った事もありました。
水田仕事も大変でした。代掻きのイブリ使い又は下駄踏み、あぜ草刈り、秋になれば稲架立て、稲架下ろし、下ろした稲を背負って納屋まで運んだこと。仕事が終われば俵編み、縄ない、さん俵作りと、お正月の餅つきまで家に入る事はありませんでした。一年半後に義兄は除隊したけれどマラリアにかかっており戦前の様には働けず、姉も無理がたたってか健康を害し、私は生活の足しにと冬は農協で働き、夏は母と共に農作業に精を出したのです。
そのうちに義兄も少しずつ健康を取り戻し、山田さんにお世話をいただき現在の一線十三号に、当時としては世間並みの家に住める様になりました。目に見えて生活が安定し、母も年を取り手伝い程度でボケもせず耳・口・頭もしっかりと幸せに暮らしたのです。
何時も言っていた事に「自分が死ぬ時には、お前達の悪いところはみんな持って行く」また「年の差がある相手は苦労する」と、一生私達の事を心配し育ててくれた母、お蔭様で七十年余り病気もせずに健康でいられる事を、この身体をくれた母に感謝しています。母の年までは無理かも知れないけれど、教えられた事は山程あります。
明治、大正、昭和と苦労の中でしっかりと生き抜いて来た母「強く生きよ」と身をもって教えられました。私達の現在には昔の人達の爪のあか程も苦労はないけれど、どんな時にでも強く生きて行ける気持ちだけは持ちつづけたいと思います。
実際の半分も書き表わす事が出来ませんでしたが母の思い出と、母への感謝の言葉をここに記す事が出来て本当に良かったと思います。
掲載省略:写真〜いしずえ大学卒業記念作品の前でのトメノさん(平成8年3月)
編集注:トメノさんは上富良野町東中の岩崎久二男氏に嫁いでおり、生家の実母島ミツさんの思い出を綴ったものである。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子