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第一章 開拓編 女性のくらし

東 中

 東中[ひがしなか]は三一五〇fの区域面積をもち、住民数も二二三戸、八八二人、農事組合二一の上富良野郡部では最大の地域である。(平成九年四月現在)東中への入植は、明治三〇年に開場の人見農場、田中農場を始め、ベベルイ川の豊かな水利のもと扇状に広がる平坦な場所から、丘陵部山間部へと農場・牧場を広げていった。東中は開拓による成功付与が上富良野で最も早く、明治三三年七月六日に神田和蔵が受けた地番も一番である。
 当時鉄道(現富良野線)及び十勝国道(旭川から帯広を結ぶ現国道二三七号)の設置は、現在のJR線と東一線道路、東中を通る斜線道路(現道道上富良野旭中富良野線)の二つの方法が検討され、また駅の予定地としても東中近郊が予定され入植者たちの思惑を左右したのである。しかし、鉄道も国道も実現しない中、上富良野市街地の他に唯一市街地を形成し、消防団、診療所、墓地、農協等産業組合、小、中学校、保育所、神社、仏閣、郵便局、土地改良区、各機関の東中駐在所が設置された。産業、生活全般に係わる商店街も繁栄し、独立した機能をもつことにより、人々の意識の中にも独立的な気風が育くまれている。
 上富良野の歴史の中で、町の発展における自衛隊の存在は大きく、十勝岳から富良野岳、前富良野岳、旭岳に至る連峰の山麓に広がる演習場の大部分は上富良野で、その地域は旭野、富原、日の出の一部と東中ベベルイ川上流地帯を含む約三三〇〇fを占めている。
 現在の上富良野観光振興の原動力の一つである「ラベンダー」は東中の地で育くまれた。このラベンダー耕作に関心をもったのは、終戦後、雑誌、新聞に紹介された記事を読んだ上田美一であった。太田晋太郎、岩崎不二男と相談し、札幌の香料工場を訪れ、昭和二三年に委託栽培契約し二一人で作付を始めたのである。
 しかし、その年は植付けがうまくいかず断念したが、団結と粘りで翌年は成功し生産ベースにのせる事ができた。昭和二六年には上田宅横に香料油蒸留工場を設置し、耕作面積も年々拡大の一途をたどることになった。昭和三三年には北海道奨励作物に指定されたこともあり、東中の山々を紫色のラベンダーがジュータンの様に彩った。パッチワークのモチーフとも形容でき、暑く短い上富良野の夏はラベンダーの香りに包まれていたのである。
 しかし、昭和五〇年以降、安価の輸入香油や合成香料の影響を受け減反、その後、買取り中止になり農作物としての時代に終わりを告げたのである。このラベンダーに思いを残した最後の作付畑が、国鉄の全国版カレンダーに掲載され、北海道新聞等にも紹介された。これを機会に、映画(時をかける少女)でのラベンダーの香り、歌謡曲(松任谷由美作詞作曲)にも唄われ、多くの人々に興味を抱かせ観光作物として新たなる「ラベンダー」として生まれ変わったのである。彩りあざやかな紫の花の群落と新緑、澄みきった青い空のコントラストは、日本の中でのヨーロッパを漂わせ、誰もが一目見たい、その香りにふれてみたいと思ったからである。
 上富良野に花開いたラベンダーも今年四八年目を迎え、その魅力は今も昔も変わらないだろう。平成六年一一月四日、ラベンダー発祥の地を記念し、日の出公園展望台と東中神社前に記念碑が建立された。しかし、東中の山々に今はもうラベンダーを望むことは出来ないが、今、町づくりの一環として、観光名所として、日の出公園を始め、深山峠オーナー園など様々な街並みに「ラベンダー」は生きている。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子