第一章 開拓編 女性のくらし
家族に支えられて
大森 ウメコさん 七十六歳(富原)
大正九年二月二十六日、佐藤梅治、かのえ夫婦の間に、五人姉妹の三女として上富良野に生まれ育ち今日に至りました。
この間、年号も大正から昭和、平成と変わり何時しか過ぎて来ましたが、お互いに励まし助け合って余生を送る事が出来る平和の尊さに感謝しています。
振り返ってみますと大正七年、両親が山形県より旭野の山加農場(現在の「かみふらの牧場」のところ)に入植し農業経営をしておりました。私が五歳の時、日の出地区に転居し、両親は七万平方bの畑の耕作に精出していました。
その頃は現在のような機械など無く、総べてが人手と馬での作業で非常に苦労していました。特にこの辺は、十勝岳安政火口の爆発によって土が見えない程沢山の石礫があり、農作業の合間には石拾いで苦労しました。また畑には時々熊が出没し作物を荒らしたり、野菜畑では西瓜を割って食べられた事もあったので、近所の方が鉄砲を持って来て畑に仕掛けてくれたりしていました。
通学は、上富良野尋常高等小学校まで約四`の道程でしたが、非常に道路が悪く、靴の中に土や小石が入り嫌な思いをしました。遅刻をした事も度々でした。
忘れる事のできない、大正十五年五月二十四日の十勝岳の大爆発は小学一年生の時でした。前日の夜母に「今夜は着物を着たまま寝なさい」と言われた事を覚えています。この大爆発で牛馬が泥流に埋もれて動くこともできず、大きな呻き声を上げ涙を流していたそうです。
激動の昭和期
昭和の年代は日本にとって悲しい出来事が多く、昭和六年満州事変、同十二年支那事変、、十六年には太平洋戦争、そして二十年終戦と、正に激動の時代でありましたが、主人の弟も二十六歳で戦病死しました。
昭和十一年には天皇陛下が来道され、旭川より富良野線通過の際には、婦人会は白の割烹着に「国防婦人会」の襷[たすき]姿で駅頭に並び、お出迎えしました。同十五年には紀元二千六百年を迎え国を挙げてのお祝いがあり、小学生は祝歌をうたい日の丸の旗を振って街中を行進しました。
当時、青春時代であった私達農家の女性にとっては、農作業を終えた冬期間のびのびと、和裁を習いに街へ通うのが何よりの楽しみでした。その頃が懐かしく思い出されます。
昭和十八年に大森家の長男と結婚し、翌十九年、主人が応召後、長女が誕生。主人は千島の得撫島[エトロフトウ]に行き札幌、旭川に回され、二十年八月終戦後復員しました。戦時中で強く印象にあるのは「グラマン」戦闘機が大挙して飛来し、慌てて下水路に飛び込んで、蕗の葉で頭を隠し難を逃れました。
また主人の留守中は、開墾に慣れない馬との作業でした。馬は、使う人の心をよみとる賢い動物で思うように歩いてくれず本当に疲れました。
種子の蒔付けには四十`もある肥料を背負って三、四百bもの坂道を運びました。又、日中に刈り取った稲束を、夕刻より肩に担いで運び稲架かけでした。終戦前後は特に物の無い時だったので履くものも無く素足で、朝夕の暗い中で畦草を刈り、それを背負って運び家畜の飼料にしましたが、これも疲れました。
冬の間は俵編みに縄ない、それに繕い物、丹前の仕立てなど、十人の大家族なので殆ど暇がなく、毎日のように針を持つ仕事で日を送りました。今の贅沢な日常生活が勿体なく思われます。
時を経て
その後は長男に恵まれ、忙しい中にも大変楽しい毎日でした。でも、それは長くは続きませんでした。或る日、自宅の傍を流れる東中土地改良区用水路に転落し水に呑まれ、長男は五歳で人生を終わってしまいました。
月日と共に漸く気をとり直し働きましたが、胸の中は言う事の出来ない苦しみが残り、どうする事もできませんでした。でも其処には大変教養のあった主人の父、いつも優しくしてくれて風呂にも一緒に入った母、弟妹達の暖かさに支えられ時を過ごして来ました。
長男亡き後三女に恵まれ、それぞれに成長し、昭和四十二年、我が家にも良い後継者を迎え大変有難く、嬉しく思っています。娘婿は、高校を卒業して一時歯科医院に勤め、その後自衛隊に勤務し退官したのですが、農作業も直ぐに身につき、経営その他一切を委譲して二十年余になり、信頼出来る良き経営者として頑張っています。これまでには、馴れぬ作業に並々ならぬ辛い日が続いた事と察せられます。
掲載省略:写真〜旭川市で行われた農業祭りの演芸に上富代表として出演した富原婦人会、中央、和服姿がウメ子さん(昭和40年8月17日)
私も永年頑張って来ましたが、現在は余り無理をしない範囲で手伝う事にして、老人の集いと、自分の趣味を生かして得意な和裁をしたり、旅行をしたりする事が何よりの楽しみです。
近年は、定年退職した義弟達が作業の合間に、道内各地へ観光旅行に誘ってくれます。今年(平成八年)は網走管内東藻琴村の芝桜を見せて貰いました。十五万平方bの傾斜地に濃いピンク、淡いピンクと色とりどりで、本当に夢の様な光景が強く印象に残りました。
これからも、お互いに健康を護り、楽しい余生を過ごすことが出来るよう念願しています。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子