第一章 開拓編 女性のくらし
富 原
富原[とみはら]地域は、西側では東二線と三線の中間線で島津、北側では東三線道路を境界に市街地、北は二五号と二六号の中間辺りで日の出、東は自衛隊演習場とデボツナイ川の沢沿いに東中と境界している。南は北二〇号東二線と三線の中間点を起点に、同二〇号四線と五線の中間点、北二二号四線と五線の中間点北二二号道路の東側延長線とデボツナイ川沢の交点付近の、この四点を結ぶカギ状線で東中と中富良野町に接している。地域面積は平成六年現在約六九一fと小地域であるが、自衛隊演習場の設置や市街地の拡大のために狭くなったもので、かつてはもっと広い地域であった。平成九年四月現在、戸数五六戸、人口一八八人となっている。
富原地域には、団体入植や単独入植地はなく、永山農場(明治三三年)福島農場(明治三三年)カクヒラ牧場(明治三九年)第二本間牧場(明治三五年)第一安井牧場(明治四一年)の農場、牧場系統で地域が形成された。当時平地部の大半が水はけの悪い湿地状であったため、農場の入地場所は、湿地を避けた東側丘陵地の裾の部分で、ここから西側平地部に開拓が進んだ。
富原という名称は、青年団に起源がある。地域単位で青年団をつくろうという動きが出た際に、富良野の「富」と平原の「原」を取って「富原」とし、大正九年五月に富原青年団が発足した。この富原が後に現在の地域名になったといわれる。
富原には、サッポロビールのホップ園がある。日本での栽培は、明治一〇年に北海道開拓使直営のポップ園を開いたのが始まりで、明治一九年には、ビール事業が民間に払い下げられ、大正九年からは、会社の直営栽培から農家との契約栽培に切り替えられるようになった。大日本麦酒株式会社(サッポロビール鰍フ前身)が大正一二年に上富良野村、夕張町、遠別町などで試験栽培を実施した結果、上富良野が優秀な成績を示して、ホップ栽培の候補地の中では最適地と判断された。上富良野の試験栽培は、旭野、江花、草分の三カ所で行われ、大正一四年からは、この試験地を中心に契約栽培が始まった。翌大正一五年には富原の本間牧場を買収(約三〇f)して、会社直営のホップ園も開かれた。現在国内生産地は東北地方や中部地方の寒冷地が中心で、北海道内で生産されているのは上富良野町だけである。富原のホップ園も、生産のためだけでなく品種改良などの試験農場ともなっていて、町内での栽培も新品種の開発試験栽培が中心であり、開発された品種は現在ホップの故郷中央アジアで栽培され、輸入されている。
かつては、東四線北二二号、斜線道路沿いに「地鎮の森」があった(現在ではなくなっている)。ここには地神も祭ってあったが、大正一〇年に富原三の安部宅裏のホロベツナイ川岸に移設し、もう一体の山神大権現碑(元の場所は不明)と並べて安置されている。
二体とも、裏面に明治三三年一〇月一七日と彫られており、上富良野高等学校郷土史研究会の調査により、これらは元、旭川の永山農場内にあって、時期は不明だが富原永山農場の組合員九人が中心になって旭川から移設したものと解った。更にこれは、富良野地方で最も古い石碑であることも判明したため、昭和五五年一二月九日に上富良野町文化財に指定されている。
あまり知られていないと思われるが、富原開拓以来、地域を見守って来た二体の地神は、正に富原の象徴といえよう。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子