第一章 開拓編 女性のくらし
旭野に生きて
林 トヨメさん 八十一歳(旭野)
私は大正四年七月十三日、十人牧場(現在旭野)で父村上清太、母上ヨノの長女として生まれた。父母は山形県から開拓団として入植したが、母が病弱のため野良仕事ができず、作物になるものも収穫することができず食用としてなんとか、そば、いなきびを作り、父は冬の間も山かせぎ(造材山までの冬道つけ)で生計をたてていた。私の後に二男二女が生まれたので、不息尋常小学校へは三年生まで通い、十歳から中富良野村の水田農家の佐藤宅、八倉巻宅へ子守奉公に出た。長女の私は、家族のために働くことで父母が喜ぶことが一番の幸せだと思っていた。
大正十五年の春は例年より雪溶けがおそく、農作業もおくれていたので、家族総出で畑仕事を手伝っていると、ゴーという爆音と共に黒々とした煙が山をおおい、ドーッという地響が泥流だったと知ったのは、後日市街から上ってきた知人に聞いてからだった。十勝岳大爆発により、上富良野の街は大打撃をうけ、私も草分地区の高田宅へ奉公に行くことになった。既に親へは報酬が前金で支払われており、泥流を水田にするための復興作業はとても大変で、何回も家に逃げて帰りたいと思ったが家族の顔々が浮かび辛抱した。秋、奉公が終わった時、高田さんに着物を作っていただいた事は、とても嬉しくて今もよく覚えている。
奉公には多くの家へ出向いたが、不息尋常小学校の運動会の時と上富良野神社祭りには休みをもらい、久しぶりに我家に帰れることが楽しみだった。お盆になると、山加農場の管理人であった西口三太郎宅では自宅前広場に櫓[やぐら]を組み、部落の若衆や硫黄鉱山で働く人達が大勢集まって来て盛大に盆踊りが行われており、太鼓の音に誘われて無我夢中で走って見に行った。
当時我家は山々に囲まれており、母が近所の高橋さんへ仕事に行き、私が幼い弟の子守をし、弟の乳飲みの時間に高橋宅の母の元へ行く途中、川井さんの家の横の山から大きな熊がでてきてあわてて走り逃げたこともあった。
結 婚
昭和十年一月二十一日、旭野で商店(文具や食料品を売っていた)を営んでいた佐藤卯之助さんのお世話で、同地区に住む林財二と結婚した。夫は次男だったが、長男が十九歳の若さで亡くなったので後継ぎとなった。子は一男三女に恵まれた。畑は十町歩あり、小麦、馬鈴薯、豌豆、金時豆を作った。畑は石と重粘土地で、石拾いと、粘土の塊がゴロゴロしているのを鍬でたたいて細かく砕いて土を作る作業に追われた。
夫は冬になると山かせぎへと出掛け、馬追い(造材山から木工場へ丸太を運ぶ作業)をした。朝三時に出て、帰ってくるのは夜十時過ぎまでにもなった。
掲載省略:写真〜夫財二さんと結婚記念(昭和10年1月21日)
私は夜中に起きて、朝食と弁当を作り、昼間は夫が山かせぎに行くためのつまご(わらで編んだはきもの)を作ったり、作業服、防寒着、家族のセーター等の編物をし、夕食は夫が帰ってくるまで待って共にいただいた。
昭和二十二年、夫が四十二歳で村議会議員に当選後は、一日のほとんどが不在となり、一人で畑仕事に追われる日々となった。子供も幼く、両親も病弱のため手伝ってもらえず、私の身体が丈夫であることに感謝し一生懸命働いた。収穫後の麦の殻を焼く作業に追われて、一昼夜作業を続け、朝食をとって少し横になったが、仕事のことが頭から離れずすぐさま起きて畑に向い作業を続けたこともあった。子供たちも小学五、六年生になると、学校から帰ると鞄を玄関に置き、畑作業を暗くなるまで手伝ってくれ予定よりも早く作業が終えれることもあった。家族の団欒もなく、いつも父親不在で子供たちは淋しい思いをしたが、夫は町の農業振興のため、アスパラガス、ジャガイモの農林一号の普及に精をだしており、私は家を守り家族のため畑仕事に専念することが私の役目だと思っていた。忙しい夫もお正月だけは家におり、元旦は家族と過ごし、二日、三日は一泊で私の実家(昭和十九年に日の出地区に転居)へ年始の挨拶を兼ねて、子供たちと共に馬橇に乗り連れて行ってくれた。私にとって唯一の楽しみであった。
我家の飲水は、上川さんの湧水を貰い、必ず毎朝水汲みをし、水瓶[みずがめ]に確保しなければならなかった。十勝岳の煙が下がってくると天気が変わり水が濁るため、山の様子を見ながら水汲みをすることもあった。洗濯は川水を利用し、「三尺流れた水は清水」という合言葉でご近所共々利用していた。また昭和二十五年頃まではランプを使っていたが、ヌッカクシフラヌイ川の流れを利用し水車を使った自家発電を隣の佐藤清蔵さんに誘って頂き、共同の仲間に入れてもらい、我家にも電燈がつきとても快適な生活を過ごすことができた。
舅姑は病弱で、特に姑は六十歳頃から糖尿病にかかり、当時から食事法が一番大事と教えられ、保健婦さんからも指導を受けて、食材、調味料等で糖分の多いものを控えなければならず、とても大変だった。畑仕事にも追われる日々なので買物にも行けず、考えた末に作物の大豆から豆腐を作ることを思いついたが、夏はあまり作りおきができないので大変であった。冬は大豆をすったご汁、凍豆腐を使った料理をし、姑も好んで食べてくれたのでとても助かった。舅姑共八十歳を超える長生きであった。
晩 年
鍬頭(作業の親方)は昭和四十年、息子の結婚で引退した。それでも家の回りの草取り、野菜作り、家事と孫守り等、身体を動かすことが何よりの健康の秘訣であり、平成五年に「骨粗しょう症」と診断されるまで病院にかかったことはなかった。好き嫌いなく何でもよく食べて、規則正しい生活をしていたのに、急に歩くことが困難になっての入院生活で私自身大変驚いた。三カ月間の入院中はたくさんの薬が調合され飲んでいたが、担当医師の交替により量が減らされると調子も良くなって退院することができた。今は、姉弟たちと白金温泉、十勝岳温泉へ湯治に出掛けることを楽しみにしている。
掲載省略:写真〜昭和37年頃の道道吹上上富良野線の冬道(山加農場から十勝岳を望む)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子