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第一章 開拓編 女性のくらし

島津の女性たち

水谷 トシエさん  八十二歳(島津)

 私は島津二南に生まれて島津三南に嫁いで来ましたので、島津生活八十二年の上富良野っ子≠ナす。
 昭和九年に結婚してからでも既に六十年になり三男三女、孫二十三人の老母ですが、まだ、雪の降らない時期だけは自転車で用足しをしたり、今年(平成八年)の六月には、札幌に住む二女が同行してくれたので東京まで行き孫の結婚式を済ませて、もう最後だろうからと、富士山に登ったり草津温泉や日光見物などをして、満足して帰って来ました。
 こうした現在だけを言いますと、さぞ羨しく思われそうですが、物心ついてからでも七十余年の人生行路には山あり谷ありで、生易[なまやさ]しいものではなかったのです。

   開拓当時の暮し

 私は幸にも、三南という水田地帯に住ませてもらったので、開拓の苦労だけは経験せずに過ごす事ができましたが、私より十年、二十年先輩の人達に、いろいろな集まりの中で話を聞いたり、また島津の古い記録などを読むと、手作業だけでの開墾は想像以上に大変だったと思われます。
 原始的な農具と強じんな体力だけが元手の仕事だけに毎日が汗と油の連続、男だけではなく女も同じ労働をしながら、夕食が終っても、明日の食事はどうしたらと一休みする暇もなく、粟やそば、いもなどが主食なので、搗[つ]いたり碾[ひ]いたりして食べさせなければならず、毎晩のように夜業をしたと言う話をよく聞かされました。
 冬になると、男はお金を得るため造材山へと出稼ぎに行くので、女は留守居の傍[かたわら]、来るべき春に備えて、作業着や裸足袋などを何枚も何足も作るのが仕事で、それもカンテラの灯を頼りに夜遅くまで働き、また出産の時は、主人や近所の人達の手助けでようやく出産し、産後も、忙しい時は数日にして働かなければならず、当時は産児制限などあろうはずもなく、少なくて四人、多い人は十人もの子を、みんな母乳で育て上げたと言うから驚くより外ありません。
 ちなみに当時の娘さんは、筵[むしろ]なら二十五枚、穀物なら一俵ぐらい背負えなければ嫁さんの資格がないといわれたそうです。

   女子青年団活動

 大正十一年十二月に、島津処女会という団体が設立されましたが、当時の女性は読み書きが得手でなかったからか、会長には管理者の指名で男性が選出されたそうです。その頃は小作人も多かったせいか相当の会員が集まって、海江田家の一室で、市街から適任の先生を招き家事、裁縫などの花嫁修業にいそしんでおり、その後、島津のほぼ中心地に集会所が出来てからは、冬期間だけ裁縫の先生を招いて、行儀作法や生花なども習っていたようです。
 昭和の年代になって処女会から島津女子青年団と名称が変わり、島津家から立派な団旗を下げ渡されて、男子青年団と共に三反歩の畑を無償で耕作し、その収入で会の運営をする事ができたので、村の女子青年団の中では優秀な部に入っていたようです。昭和十二年に島津農場が自作農になった後も三反歩の畑はそのまま作っていました。
 戦争が始まってからは銃後の守りの一翼を担い、出征家庭や遺家族への労力奉仕や、戦地の兵隊さんに慰問袋を作って送ったり、或いは人手が足りなくなった軍需工場への勤労奉仕などに女子青年団として出動させられ、又、竹槍[たけやり]や乗馬訓練なども男子青年と同じようにさせられた様でした。
 島津家から下賜[かし]された団旗は今も男子青年団旗と共に、ふれあいセンターに安置されており、訪れる人達の目を引き当時を偲ばせています。

掲載省略:写真〜島津処女会(大正15年3月25日)と島津農場女子青年団旗

 終戦を境として男女合同の島津青年団が結成されましたが、入退団が自由となり、女性にも農業以外に働く場が出来たり、非農家に嫁ぐ娘さんが多くなって入団者が減少し、自然消滅の形で現在に至っております。その後、島津婦人会、農協婦人部、若妻会などの組織が生まれ、その中でも子供会育成会や赤十字奉仕団、ボランティアなど、活動範囲が広まってこそいますが、時代は変わっても女性特有の優しさや、それぞれの立場で励まし合っている姿に変わりはないように思います。

   婦人会活動

 社会福祉法が制定されて、六十歳から仲間に入れてもらえる部落単位の老人会がありますが、人生五十年から八十年に延びたこともあってか男より女の加入者が多くなり、二十数年前の創立時には同数だった会員が、今では圧倒的に女性が多いのは、それだけ女性の意識が変わったと言う事でしょうか…。
 戦争中は、銃後の守りは婦人でと全国的に「国防婦人会」が組織され、真白な割烹着に「国防婦人会」のタスキをかけて、応召軍人の家庭慰問や出征兵士、帰還兵士の送迎などを強いられ、更には、夫が出征した後の家を守り、老人の世話や育児に追われながらも食糧増産の使命も果たさねばならず、いかに各層の援助があったとはいえ、日本女性なればこそ、この重大時を乗り切れたものと思われます。

掲載省略:写真〜農協婦人部演芸会で踊るトシエさん(中央正面向き)(昭和35年3月)

   時代が変わって

 現代では、男女平等、人格尊重の世の中となり、結婚も自由にできるようになりましたが、昔は、家と家との条件が合って初めて縁談が成立し、本人の知らぬ間に親同志が決めて見合いをし、否応なしに結婚させられていました。まして新婚旅行もなく、私などは結婚式の三日後には、寒い所で湯たんぽを抱いて俵編みをしていた記憶があります。
 今では老人会やいろいろなツアーに参加させてもらい、苦労した分だけ楽しみが増していますが、これも健康なればこそで、医療制度が充実しているとはいえ有難い事と感謝の日々を送っています。

   回  想

 主人に赤紙が来た時は稲刈りの最中でした。当時は人力のみの作業なので、夕方まで刈り取りをして、稲架に掛けるのは殆ど夜業でしたので、主人が手造りした移動式の子育て小屋に、八歳を頭に五人の子供を入れて作業をしていました。
 長男が子守唄などを歌って弟妹の面倒を見てくれ
ている間はよかったものの、そのうちに虫歯が痛いと泣き出す子もいたり、いざ夜業を終えて子供達を連れ戻るのがまた大変で、二回も往復して、やっと夕食をしたものでした。
 こんな状態の家庭から、主人を関東軍に送り出さなければならなかったのですから、ひどい世の中でした。身内の者や部落の人達の援助で、どうやら苦難を乗り越え、やがて終戦となり、シベリアに抑留されていた主人も、飢寒[きかん]にも耐えて、五年後にようやく復員して来ました。
 食糧や物資不足の暗たんたる時代でしたが、実家の母が、夫の出征中の五年間、それから後も九十歳近くまで、我が家の如く見守ってくれたお陰で今日ある事を思い、末っ子の私を最後まで気づかってくれた母に感謝しています。
 信仰心の深かった舅や姑、実家の両親が朝夕仏壇に礼拝していた姿が今でも目にうつります。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子