第一章 開拓編 女性のくらし
新天地島津に暮して
北川 ハルさん 八十六歳(島津)
明治四十三年、富山県下新川[しもにいかわ]郡田家村で谷長次郎、ふでの五女(十一人兄弟)として生まれ、大正二年満二歳の時に一家は、母方の叔母、守田ふさを頼って上富良野村草分に入植した。新地の開拓は大変で食べるだけの物もとれず、大変苦労したことを覚えている。
草分の上富良野尋常小学校に通ったが、草分に来てから弟妹が三人増えたので子守りをしなければならず、時には学校へ連れて行ったりもした。
卒業後は、夏は家の仕事を手伝い、冬はお寺へ裁縫を習いに行き瀧本先生(現大雄寺住職の母)に教えて貰ったが、同年代の二十人程の人が来ており、
この頃が最高に楽しかった。
新天地島津へ
大正十五年五月、雨降りの中、兄嫁と一緒に田んぼの代掻[しろかき]を手伝っていた時、一週間程前から大きい山鳴りがしていた十勝岳が突然爆発した。泥流は鉄道の線路でふさがれたものの家は流され、田畑の被害もひどく途方にくれたが、通い作のために建ててあった山小屋に住んで田畑の復興に努めたが、小作だったので、昭和二年に島津に移り住んだ。島津に来た時は開けていて「いい所だなあ」と思った。
昭和四年、二十歳で、同じ島津の北川三郎と見合い結婚した。当時はみんながそうであった様に、自宅で仲人に三、三、九度の盃をして貰い部落の皆さんに祝って貰った。結納金は五十円であった。夫は理解のあるとても優しい人だったが、色々と公職に携わっていたので留守の時が多く、一人で仕事をしなければならず大変な事もあった。
結婚して二年後、二町五反の水田と畑二町歩を貰って分家したが、凶作の年が続き米がとれず売る物が無かった事もあり、また青米しかとれず、粉にして団子にしたり、芋をご飯代わりに食べた事もあった。昭和六年に満州事変が起こり、本家の主人(夫の兄)が出征した時は、本家の仕事も手伝わなければならず大変だったが、農作業が遅れている家を隣近所が手伝い、お互いに助け合っていた。
掲載省略:写真〜昭和10年頃の北川家の一族 中央エプロン姿がハルさん
子育ての頃
六人の子供を授かり二人は幼い時に亡くしたが、妊娠中も農作業を休む事なく、お産の間際まで働き続け、最初の子供は里帰りして出産したが、二人目からは自宅で産婆の相馬さんに取り上げてもらった。
昭和十六年に、まだ小さかった子供をおいて一カ月間、滝川ホームスパン(太い紡毛[ぼうもう]糸を使い、あらく平織りに手織機で織った紡毛織物)の勉強に行った。その時に緬羊[めんよう]の事を一通り習いジンギスカン料理も教わった。又、布の染色料として木の皮や玉葱の皮などを使う事も覚えた。
着る物もない時で、子供達が大きくなるにつれて緬羊の飼育頭数を増やし、糸や毛糸をとって編んだり、ホームスパンを織ってオーバーやズボンなど、子供の衣服を一針一針縫って着せた。
子供達にも随分と家の手伝いをさせたが、お祭りに連れて行くのが楽しみの一つであった。島津のお祭りには芝居が来たり賑やかだった。お祭りや運動会のご馳走は母に教わった富山風の押し寿し(すし飯を押しわくに詰め、間に魚をはさみふたで押しをかけ形を整え、しばらくおいてから切って食べる)を作った。母と郷里に行った時にも矢張りご馳走だと言って押し寿しを出された。
婦人会活動
島津の婦人会には三十五、六歳の頃に入会し後に支部長も務めたが、戦時中は留守家庭の慰問や病気見舞などをしていた。踊りを習い島津の集会所で年寄りの慰問に踊ったり、歌留多[かるた](百人一首)大会や講演会、また夏には日帰り慰安旅行、冬は野菜料理の講習会等もしたが、当時、主婦が出かける事と言えば婦人会やお寺参りぐらいだったので、行事には皆が参加していた。
また、明憲寺仏教婦人会の会長も務め、お参りに来る方々のお世話もしたが、その頃は、今では考えられない程大勢のお参りがあった。
現 在
昭和四十三年に夫に先立たれたものの幸せな生活であった。八十歳になった時、記念にと、長男浩毅[こうき]の発案で香港、バンコク、シンガポール、マレーシアと初めての海外旅行を、子供達とその家族、総勢十四人で楽しむ事もできた。今は長男が後を継ぎ、離農して行く農地を買い入れたが、国を守る防衛庁の要請により農地を売却することになり、止むを得ず規模を縮小したが、今も高所得の上がる農業を営んでいる。
平成九年一月四日、米寿の祝いを子供、孫、曾孫と一緒に温泉一泊で祝っていただき、人生最後の思い出となった。
新天地島津に暮して七十有余年、時代と共に生きてきたが、近年病院で過ごす事が多くなり、病院の窓から近くに新築した家を眺めながら静かに療養している。
掲載省略:写真〜平成9年1月4日米寿の祝いで子供、孫、曾孫達に囲まれ花束を手にしたハルさん
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子