第一章 開拓編 女性のくらし
北海道に誘われて
北野 さとさん 九十三歳(島津)
十四歳の決意
明治三十六年九月一日に富山県西砺波[となみ]郡福光町立野脇[たてのわき]に、父西村助松、母おとの四男三女の長女として生まれた。家は農業を営み、長女の私は父母の手伝いをしながら幼い弟妹の世話をし、学校は尋常小学校四年生までしか通うことができなかった。
十四歳の時、北海道に入植されている知人の紹介で、北村さんと長原さんの三人で奉公に行くことになった。出発前に母に髪を結上げてもらい、父と撮った写真を胸に「北海道」という広大な原野に夢を見ていた。富山から汽車、船を乗り継ぐ長い旅も、三人で新しい世界へと胸膨らませて語り合い、窓から移り変わる景色に未来は広がり苦にはならなかった。
掲載省略:写真〜父西村助松さんと14歳のときのさとさん(大正6年)
上富良野村島津地区の北村吉間さん宅に奉公に入ることになり、子守り、掃除、洗濯、食事の支度、農作業等忙しい日々ではあったが、今まで家でもしていたことなので、あまり辛くはなった。冬の寒さが厳しいなか、凍った水で手がしもやけになり、かじかむ手に息を吹きかけながら、遠い春の日を楽しみにしていた。
結 婚
十七歳(数え年)の時に奉公先の北村吉間さんのお世話で、島津地区の北野豊と結婚することになった。結婚後は朝四時に起き、馬に餌をやり、家族の食事の支度、後片付けに追われながら陽が沈むまで田畑で働き、家に入ってからもつくろい物等休みなく働いた。
当時、島津地区は泥炭地、草原地帯でタモノキ、バンノキが生い茂り、毎年客土をし開墾したが、出来上がった米の一番米は島津農場へ、二番米を出荷し、米選機から落ちたくず米をだんごにして食料とした。また、そばも植え、石うすで粉をひいてそば
をうった。家族そろっておいしいとすすったそばの味は今もなつかしい。
また北野家は島津地区以外に旭川市神楽岡地区に通いの畑も作っており、馬車で夫と共に出向き仮小屋で生活しながら耕作した。この地域は粘土地のため、水はけが悪いばかりか水源地もなく、たまり水(ぼうふらがわいている水等)を汲んできて、鉄瓶でわかして飲料水に使った。
子供は二人産んだが、長男は二歳で亡くし、次男の哲二一人になったので養女を迎えた。後に哲二の嫁となったセツ子である。義父母も厳しい人であったが、子供たちには優しく良く面倒もみてくれた。
戦争の日々
幸せな生活に暗天がさした。一人息子の哲二が召集され、満州七二八部隊へ出兵。「泣きません、勝つまでは」とお国のために役立てることが一番の幸せと教えられ、国防婦人会活動に積極的に参加した。
しかし、農業用に飼っている馬が二頭いたが、四歳馬になると軍馬としてとられ、終戦まで計十頭にもなり、農作業に苦労しながらも手作業で農耕を続けた。
終戦後も哲二はシベリアに抑留されたが、昭和二十三年十一月十八日に帰国し、舞鶴の地から母宛に送ってくれた電文は今も忘れることができない。
『ちょうらん丸輸送船で舞鶴上陸』の文字に息子の生存を喜ぶと共に、我家の長い戦争の日々が終った
と痛感した。
掲載省略:写真〜特別演習のため来道、富良野線通過の天皇陛下を駅にてお迎えした折の記念に哲二さんと(昭和16年)
晩 年
哲二帰町後、セツ子と結婚。孫四人に恵まれ、農業経営も息子夫婦にまかせてからは、夫と共に島津地区老人クラブに加入し、島津の秋祭り(九月四、五日)の田舎芝居を楽しみに観劇した。旅行も四国、九州に出掛けて、友だち同志でのんびり楽しく過ごすことができた。
昭和五十一年三月十七日、夫が七十九歳で亡くなった後、ひとりになった淋しさも、夫よりも少しでも長く生きたいと法要を重ねる度に願い、平成二年十一月一日から特別養護老人ホーム(ラベンダーハイツ)に入所し、人生楽しかったことを想い出している。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子