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第一章 開拓編 女性のくらし

島 津

 島津[しまづ]は、南は中富良野町に接し東を富原、西を江花と江幌、北は市街地に囲まれ、平成六年現在六七四f余りの区域面積を有し、平成九年四月現在一一〇戸、四一六人(ラベンダーハイツを含む)の地域である。
 富良野地方の開拓は牧場、農場、団体入植の三つの形態が同時に混在しながら進められたが、島津は一つの農場が一地域を形成したという点で珍しい存在であった。地域の名称ともなっている「島津農場」は旧薩摩(現在の鹿児島)藩主・公爵島津忠重が経営したもので、明治三一年に五〇〇fの貸し下げを受けて設置された。先代の忠義公が早くから北海道開拓に関心を寄せ、不毛の地を開拓して国家に貢献したいと、北方寒地農業に苦心した結果が今日の開発成果である。
 明治三一年、吉田清憲、海江田信哉が四カ所を実地調査し、気候、風土、地理的関係から二カ所を選び、富良野には、その十月に小作小屋掛け用の草刈人夫を派遣したのが、富良野島津農場の着手であった。翌三二年、夕張郡長沼村近郷から小作人二五人を募集して入地させ、その翌年にも長沼村から二五人を募集したが、この二年は凶作で入地者自身の食糧にも不自由する状態で、三九戸が引きあげた。残された土地に農場直営で牧草を作り、第七師団(旭川)に売却する方針で三四年に着手し、翌三五年には一〇〇fの牧草地になり、三六年には牧草の収穫機械も購入し、村で最初に輸入機械が使用された。
 明治四三年、水田試作地三f、翌四四年に九fを造田したが、新田試作では天候不順により収量は少なく、稲作に着手してから何度かの冷害に遭いながらも、大正一〇年後は造田が進み、農場五〇〇fの内約三八〇fが水田となった。また大正四年からは小作人共同の肥料購入方式を導入して、農場組合の基礎が築かれた外、同年、島津青年会を組織して青年の育成指導をするなど、意欲的で先進的な地域でもあった。
 当時上富良野村では、堅実な農村建設のために昭和一〇年度から、村内小作の全自作農化を目指すことになったが、島津では昭和二年一月、初めて自作農化の声が起き、農場開放の運動を進めることになった。自作農創設期成会を組織して、仲川善次郎を委員長に、七人の小作代表者を委員に選出し、村当局、上川支庁、北海道庁の応援を得て六月二七日農場開放が実現された。
 農場や牧場は江戸時代から明治維新を通して、経済の中核を担って来た人々が経済力や政治力を背景に、新天地北海道開拓への投資事業として経営に乗り出したのが大半であったが、真剣に取り組んだものはごく僅かで、多くは未開国有地の貸し下げを受けて、いかに少ない経費で成功審査を完了し、土地の所有権を得るかに専念しており、付与地の売買や、貸し下げ権利の譲渡も行われていた事実もあったと言われる。こうした事から農場、牧場用地の流動や経営実態は定かでない部分が多いが、島津農場は明治三二年に開墾に着手以来、昭和二年に農場が開放されるまで、島津家から出向して管理に当たったのは故海江田信哉(旧薩摩藩士)継いで子息の故海江田武信(元上富良野町長)であり、一貫した経営方針が貫かれ、また多くの記録が残されている。これらの資料は、島津家や海江田博信(武信子息)宅に所蔵(一部郷土館に寄蔵)されている。
 昭和三〇年、島津地区に陸上自衛隊駐屯地が設置された事により、人口も増加し市街地が拡張されて、かつて島津地区であった現在の西町、光町、富町、大町、南町、桜町が市街地に編入されている。現在は島津の中央部を国道が走り、それに沿ってホテルやレストラン、公共施設などが建ち並ぶ丘からの十勝岳連峰の眺望はすばらしく、周辺一帯は景観に恵まれた地となっている。
 明治三一年島津農場開設以来九九年の歴史を重ねる中で、毅然として薩摩藩の意志を受け継ぎ、今なお、その気風が漂う由緒ある島津地域である。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子