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第一章 開拓編 女性のくらし

母「川田 ヨツ」のこと

川田 フミさん  七十二歳(日の出)

   母の生いたち

 私の母は明治十七年六月十五日、富山県で生まれ幼い頃両親が亡くなり、祖母に育てられ又、叔母の所にあづけられました。少し大きくなって材木商に女中奉公に入り、長年働きました。
 其の頃、北海道にいる兄から、こちらに来ないかと便りがあり、兄の方で働くつもりで遠い北海道に心細い思いで旅立ちました。汽車に揺られ船に酔いながら、兄と会えた時は嬉しさ一杯でした。けれど気の強い兄嫁は度々兄と喧嘩が始まり、母は、どちらにもつけずただおろおろするばかりでした。
 ある日、農家から縁談があり、兄のすすめるまま嫁ぐ事に決まり不安で一杯だったそうです。十円の結納金をもらい、兄夫婦に伴われ、柳ごうりと布団を持って川田家に嫁いだのは、明治三十七年、二十歳の時でした。祝の酒を酌み交わした時、私にはもう帰る家も無いし、どんなに辛くても辛抱しようと心に決めたそうです。寒い冬になると凍[しば]れもきつく、吹雪になると朝には布団の上が、すき間から入った雪で真っ白になり箒[ほうき]で掃く事も度々でした。父は頑固な人でしたが、姑はやさしい人で度々お寺参りに連れて行ってくれました。
 結婚して二年目お産の時です。姑は畳を上げ灰をおき、藁[わら]をひいて其の上にポロ布を敷き、その上に座って産むのです。前には砂を入れた重い箱がおいてあり苦しくなると、いつの間にか両手で箱を持ち上げておりました。生まれたのは男の子でした。
 舅は内地の水田を長男にまかせ、次男の土地を求める為、十五歳の次男を連れ開拓団に入り、次の年姑も連れて来て、荒地を切り開き苦労し、舅は大正六年七十二歳、姑は大正十年六十九歳で次々と此の世を去り、母は悲しみと共に感謝の心で一杯だった
そうです。
 其の頃、父は村会議員に選ばれ出かける事も多くなり、その分母と奉公人の仕事も忙しくなり大変だった様です。母は時々くじけそうになったけれど、子供達の為に頑張らねばと自分を励まし生きて来たと言っていました。

掲載省略:写真〜母ヨツさんに抱かれたフミさんときょうだい(大正13年)

   十勝岳爆発のこと

 大正十五年五月二十四日午後四時頃、すごい音がして「十勝岳が爆発して泥流が来るぞ!」と誰かが大声で叫んでいるのを聞き、それは大変だと父は急いで奉公人と、飯米を何俵か小屋の二階に滑車で上げ、母は大きな風呂敷に子供の着替えやオシメなどを入れ、立ち上がろうとしたが重くて起きれず、何枚か出してやっと立上がり、首にも又何枚か巻きつけて、よたつきながら山の方に逃げたそうです。その取り出す時のいたわしかった思いを母は何年たっても言っていました。
 子供達は、姉が小さい弟妹を連れて先に逃げていましたが、母の来るのが遅いので「オッカサン早く、早く、急いで、流されるよー」と叫んでいたそうです。部落(組)の男の人達は、家が流されると思って土足で家の中に入り各家の布団を持って来てくれたそうです。その時の嬉しかった事は忘れる事はないと話していました。
 避難した家は山ぎわの土井さん宅でした。大人の心配をよそに子供達は大勢集まったので喜んでお祭りさわぎです。
 お陰様でうちは家も小屋も流されず、田は半分程泥流が入りました。今度は流木のかたづけです。根っこのついた太い木や電信柱に笹の根がびっしりで泥の中をぬかりながらの仕事は大変だったと思います。流木を引張ったら子供の足だったのでびっくりした。又、鞄に名前が書いてあり、日新小学校の三年生の女の子とわかり、親がひきとりに見えて本当に可哀相だったと言っていました。方々から死人も沢山出て、モッコで市街までかついで運び、身元がわかる様に並べてあったそうです。
 今度は田の復興です。上の泥土をよけて、上の土と下の土を転返しするのに笹の根でスコップもささらず、ぬかるし難儀だったそうです。

   つらい別れ

 母は三男六女の子に恵まれましたが、長男は五年生の時に腸チフスで、又次男は洋服学校卒業後病死、三男は軍艦「陸奥」に乗っていて戦死と、男の子三人共亡くなりました。長女は生まれて一週間で、私のすぐ上の姉は五年生で亡くなり、今残っているのは女四人です。母は三歳で親に先き立たれ、どんなにか辛かった事と思います。
 母の生前中時折聞かされた事を思い出して書きましたが、もっと詳しく聞いておけばよかったと今になって後悔しております。
 昭和五十二年八月二十日、開基八十年記念式典には夫婦揃って開拓功労者の表彰を受け大変喜んでいましたが、四年後に九十七歳で亡くなりました。

掲載省略:写真〜母ヨツさん96歳のとき(昭和54年)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子