第一章 開拓編 女性のくらし
私の人生
石川 フジエさん 八十八歳(日の出)
私は明治四十二年十二月二十日、父和田柳松、母はるとの間に長男松ヱ門を頭に五男四女の二女として生まれました。そして母の温情と自覚にて私は尋常小学校高等科を卒業させてもらいました。その頃の女子生徒は殆ど小学校六年生で卒業し、家業に従事しました。
父が始めた澱粉工場の作業は他農家以上に重労働でしたが、卒業後は母と兄に仕えて一生懸命に農作業を手伝い、少しなりとも親孝行せねばと努めました。夏は野良仕事、冬は裁縫所に通って女としての嗜[たしな]みを勉強しました。
昭和六年一月三十日、私が二十三歳の時に縁があって、東中部落石川家二男の清一と結婚することになりました。水田の小作農でしたが、二人で真剣に一年働きました。しかしながら秋には大量の年貢米を納めねばならず生活は「ドン底」の暮しでした。
翌年長男を出産し、生活は益々苦しくて、主人は冬期になると未明に起きて馬橇で美瑛二股御料に行き木炭を仕入れ、午後上富良野の町にて売って、少しなりとも生活費を稼ぎました。私は主人が出かける支度をして早朝に送り出すのでした。その様な生活を数年つづけて来ましたが、昭和十二年八月、主人に召集令状が来て旭川に入隊、中支に出征して行きました。私は幼子を連れて大勢の村民と共に悲痛な思いで駅で見送り別れました。
幾多の困難をのりこえて
出征後は一人残され、女手一つで頑張らねばと心ひそかに誓い、毎日、未明から夜遅くまで野良仕事をして留守をまもりました。戦場の主人は病魔に倒れて、昭和十三年二月野戦病院に入院、症状が悪化しあちこちと病院を転送され、遂に十三年六月内地へ送還となり、召集解除になって帰還しましたが、私は病弱の夫と幼い子供をかかえて途方に暮れました。
致し方なく東中の小作農地を返還、離農して、私達親子は実家(和田)へ身を寄せて主人の療養に努める事にしました。実家には大変助けてもらい迷惑をかけた事は一生忘れません。母と兄には何とか恩返しせねばと心の奥から思いました。私は実家から少々の畑を借りて耕作していましたが、殆ど実家の農仕事を手伝い恩返しをしなければと、未明から夜半まで「アカギレ」切らして働きました。この様な暮しが数年つづきましたが、これが私の運命かと悲しくも諦めて働きました。
主人も入退院を繰り返しながら療養を続け頑張るのでした。昭和十六年、実家の隣家の林下さんが商売を止めて引っ越す事になりましたので、馬小屋を買い受け改造して、私達家族は引っ越すことになったのです。貧しい「アバラ屋」でしたが、やっと我が家に住む事が出来て嬉しいことでした。しかし幼子を二人も亡くしたりして「人生の幸せとは」と深刻に思い考えさせられました。
十六年頃、東三線北二十七号に売り土地が出て、年賦償還で五町歩購入し、小作人に作ってもらっていましたが、十八年に小作人が召集され、その後は私一人、実家や分家の弟の援助を受け細ぼそと通い作で営農することにしました。長男・洋次が二十一年三月高校卒業し、少しなりとも手伝う事になりました。そして二十六年に、二十七号の現在の我が土地に住宅を新築して転居しました。
その頃から主人も健康を取りもどして農民運動、農協組合長、道議会議員、参議院議員など務めさせて頂き、家業からも遠のき、私と子供達の肩に農仕事が覆いかぶさってきて、人知れぬ苦労の連続の中で営農をして来ました。
実家や弟の力添えと、世間様の情けにて無事ここまで過ごさせて頂きました。私も四、五年前に腰の骨を痛めて歩行が不自由になりましたが、皆様の温情にて米寿(八十八歳)を迎えさせていただき、また息子夫婦や孫達と暮すことが出来て今更ながら感謝しています。私は過去を思い出して人情の厚さに胸打たれる思いで一生を終ります。
掲載省略:写真〜夫、清一さん(当時参議院議員)と、長年書き続けている日記帳を前にして(昭和47年11月)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子