郷土をさぐる会トップページ        かみふらの女性史目次ページ

第一章 開拓編 女性のくらし

私の歩んだ人生

井村 八重さん 八十七歳(日の出)

   日の出に生まれ江花に育つ

 父、井村政之助は岐阜県の出身で、明治四十一年に母と四人の姉達、祖母、それに父の妹と弟を伴って北海道に渡り、母の姉で、現在の錦町二丁目(長瀬さんの向かい)で馬橇屋をしていた杉山九一の妻カネヨを頼って上富良野に来たのであった。
 当初は日の出(現在の横山政一さんのところ)に落ち着き、日の出山附近の畑を耕作していたが、私はそこで、明治四十三年三月、一男九女の五女として生まれた。
 その後、一家は江花の西八線二十四号に移って土地を開き、十七、八年農業を営んでいたが、その間には子供達が病気になり夜半の病院通い、また、病院に連れて行く途中に親の背中で死亡するという悲しい出来事もあったことから、街の近くにと考え、昭和二年に現在の所に来た。江花を離れる際には、一緒に渡道した父の妹・大場うの、分家していた弟の井村吉太郎は、開かれた畑を見て惜しんだとのことである。
 学校は江花小学校に通ったが、妹達の子守りで休む事が多く、卒業して直ぐの十三歳から家事や畑仕事をさせられた。
 畑が遠く通い作の為、蒔付け時には肥料や種子物の叺[かます]を背負って運び、その頃は末だ馬車などが家には無かったので、収穫した作物の運搬も総べて人手で、俵や叺を背負って運んだ。昼食も弁当持ちで、お鉢(木製のおひつ)にご飯を入れ、茶わんや皿、箸などを背負って行き、塩鱒[ます]と漬物のおかずで食べていた。
 作物は燕麦や裸麦・豌豆・金時・中長・小豆などの豆類で、麦の収穫期になると日中は麦刈りで夜は麦焼き(束にした麦の穂に火をつけて焼き、筵[むしろ]を敷いた上に落す)をして、次の日に唐竿[からさお]で叩いて麦落しをしたが、夜通し焼いて夜が開けたら落すと言う
状態で、寝る間もなく働いたものであった。

掲載省略:写真〜麦おとしや豆おとしなどに使われた「カラサオ」(郷土館展示資料)

   娘 の 頃

 十六歳から、冬は市街の佐藤さん(本町三丁目佐藤輝雄さんの母親)に和裁を習いに通ったが、農家の人が多く三十人ぐらい来ていた。夏はお祭りと運動会は仕事が休みになるので、長着を着て姉達と出かけるのが楽しみであったが、母は子供達の支度をして送り出し、自分は留守番で出かけた事はなかった。着物も、母が街に出かけ反物を買って来て自分達で仕立てたが、その頃は幾久屋さん、鹿間さん、小林さんの三軒の呉服屋があった。
 畑に出る時は絣とか半縞[なかじま](越中の反物で越中縞とも言い丈夫であった)の半纏[はんてん]にモンペ、または七分丈の着物で裾の下から赤いお腰を出して、脚半にタカジョ(地下足袋)を履き手甲[てっこう]をつけるといった格好で、今から見ると活動的ではないが、いかにも色っぽい身形[みなり]であったと思うが、これらの仕事着を作るのが女の冬仕事で、足袋は白い木綿地を型とり何枚も重ねて厚くしたものを、ひと針ひと針、刺して縫った。一貫目(三・七五`)の木綿糸を買って来て、ストーブに大鍋をかけてお湯を沸かし、その中で糸を煮て使ったが、これは糸を締めて丈夫にするのと、刺した足袋が濡れても縮[ちぢ]まない様に予め糸を縮めておく為で、一家の働き手が夏の間に必要な分(一人に三足)を作るのに冬中かかり、小学校四年生から足袋刺しをしたが、手甲、脚半[きゃはん]も同じ様に刺して作っていた。現在も、私の作った足袋が郷土館に置かれている。

   主婦・母としての暮らし

 二十五歳の時、現在の夫儀平と結婚し井村の家を継いだ。その頃は九人家族で九町歩の畑を耕作しており、父親が取り分け厳しかったので、朝は三時に起きて暗い中に畑に出て、昼食時も箸を置いたら直ぐ仕事にかかり夕食は八時過ぎであった。日のある間は働くのが常で、特に豆の収穫期になると日中は豆を刈って夜に豆積みをするので十二時になる事もあり、時には月明りを夜明けと勘違いした父に、夜半の一時に起こされた事もあった。
 そんな日常の中で四人の子供を産み、みんな母乳で育てた。悪阻[つわり]もなく楽であったが「今晩あたり産まれるわ!」と思いながら、その日も暗くなるまで畑仕事をして、産後も床にいるのは三日だけで、その間も布団の上に座って、こっそりと縫物をしていた。四日目からは炊事や洗濯をして十日で畑に出た。
 子供は母が見てくれたので仕事中は乳を飲ませに帰るだけで、とにかく一日中働いていればいいと言う生活であったが、子供達も成長し、やがて母も高齢になったので私の娘が家事をする様になった。
 昭和三十二年、長男の寛が山形県鶴岡市より働きに来ていた治子と結婚し、三十四年に孫が産まれてからは畑仕事をやめて家に居る様になったが、これより以前の二十二年に父が七十四歳で亡くなり、母は八十八歳で四十年に亡くなった。

   食 生 活

 主食のご飯は米と麦が半々ぐらいであったが、米は、秋の収穫作業が終ると知り合いの水田農家を回り燕麦と交換していた。
 鶏を飼っていたので、おかずには鶏肉をよく食べた。骨も潰[つぷ]して肉と一緒に丸めて団子にして煮ていたが、家族は大鍋を囲みながら「こんなご馳走はない」と言って食べていた。冬は牛の腹(蔵もつ)を旭川の屠場[とじょう]から叺で買って来て醤油で煮付け、保存食の様にして食べたが、魚は塩鱒だけであった。
 夏の間は、雨が降ると必ず鶏の毛むしりをさせられたので嫌になり、外のものは何でも食べるが肉だけは今も食べない。

   歳月を経て

 十六歳の時、脳膜炎に罷り死にかけた事もあったが、その後は病気もせず、十年前に股関節の手術をしたものの八十七歳になった今も元気であり、夫も九十二歳になるが病気知らずで現在も達者で、長男夫婦、孫夫婦と一緒に暮らしており、小学校三年生と一年生になった双子の曾孫との、四世代九人家族であるが、昔から大家族で暮らして来たので多い方がよく、曾孫との会話や時折の口喧嘩も、また楽しいものである。
 ひと頃は老人大学や部落の老人会で、いろいろと謡を聴いたり旅行や手芸など楽しみもあり、四国や九州にも毎年、夫と旅行をしたが、今は編物をしたりテレビが楽しみで、番組は特に選ばず家族と一緒に何でも見ている。自分達の部屋にもテレビがあるが殆ど見る事はなく、みんなが居る所が好きで何時の間にかテレビの正面が指定席になってしまった。
 新聞を読むにも眼鏡は要らないし耳も遠くないの
で、兄弟姉妹や娘、外孫と電話で話が出来るので退屈する事もなく、めったに外に出る事はないが「敬老会」には家族に車で送り迎えをしてもらい、毎年出席している。
 上富良野に生まれて八十七年、正に隔世[かくせい]の感があるが、環境の良いこの土地で家族に囲まれ、幸せな今の暮しに感謝しながら、これからの日々を送りたいと思っている。

掲載省略:写真〜夫、儀平さん(93歳)と仲睦まじく。最近の八重さん(自宅にて)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子