第一章 開拓編 女性のくらし
米寿をむかえて
安部 きみ子さん 八十八歳(江花)
新得から津郷農場へ
父佐々木松太夫、母トヨノの長女として、私は明治四十三年九月二十五日、十勝の新得で生を受け大正三年、五歳の時に上富良野の津郷農場(現在三浦国男さん宅の所)へ引っ越して来ました。
当時の津郷農場は、あたり一面、荒山と笹やぶ地帯でした。父が、そんな荒地を大きな鍬で毎日ひと鍬ずつ耕していた姿を、私は子供心に憶えています。
また切り倒した木は炭焼窯に入れて木炭を作り、馬の背に「ダグラ」をつけ、両側に一俵ずつ乗せて美瑛まで運び、それを売り食料を買って来ていたようです。
いろいろな事をしながら開墾も進み、どうにか畑作が出来るようになり、最初は蕎麦[そば]、いなきび等の食糧を作りましたが、後に二、三反位だったと思いますが水田を作るようになりました。
現在のように機械など全く無い時代です。苗代を作って苗を育て田植えをしましたが、素足で田んぼに入り手で一株一株植えたものでした。近くに湧水があったので、その水を引いて大きな水溜を作り水田に利用していましたが、山間地帯でもあり、その収穫量は一反当たり二、三俵位だったと思います。
母は体が弱かったので、いつも父が一人で働いていました。そんな父の姿を見るにつけ可哀想に思い私もよく畑仕事を手伝ったものでした。三年生頃になると、長女と言う事もあり、下の弟や妹を背負って里仁小学校に通いましたが、五年生になると必然的に農作業を手伝うようになり、六年生の時は殆ど学校には行きませんでした。現在、里仁小学校の同窓会名簿に名前が載っていないのも此のためだったと思います。それ以後は家の働き手の中心として父を助けて農作業に励みました。
第二の人生
島津に住んでいた父の従兄が、或る時「となりにいい人がいる」と江花の安部彦次郎との縁談をもって来ました。私も二十歳になっていたので「顔合わせだけでもどうか」と言われ、一度会っただけで嫁ぐ決心をし、昭和四年に結婚して江花で暮す事になりました。
安部家には子供がいなく夫は養子だったので、両親と三人家族で二戸分の畑を小作し麦や、いなきび、蕎麦などの食糧を中心に作っておりましたが、私が嫁いでからは働き者の夫と共に、あちこちの土地を借り受け、朝三時から夜暗くなるまで、馬車で通いながら本当に身を粉にして働いたものでした。
昭和十五年に隣接地五町歩を購入し、やっと十町歩のまとまった土地を耕作する事ができました。
姑は厳しい人で、嫁いで来た頃は日常の礼儀作法(特に挨拶)や箸の上げ下げまで注意されました。また夫に対する心使いとして「毎日着る衣服や丹前などはストーブで温めておくこと」など、嫁としての心得を教えられました。
昭和五年に長男彦市が産まれ、その後も七人の子供を授かりましたが、お産の時はいつも産婆さんに来てもらいました。その子供達が病気をした時、舅が仲々お金を出してくれないので病院へ連れても行けず、夜通し看病したり、肺炎になってしまったり本当に辛い思いをした事もありました。
また体が弱かった姑を登別温泉へ湯治に行かせてあげたくて、舅に私達が何度も頼んでやっと行かせてあげたのも思い出の一つです。当時の家族構成はどこも同じだったと思いますが、一家の大黒柱が財布をしっかり握っており、特にお金に対しては厳しいものがありました。
掲載省略:写真〜長男彦市さん(14歳)が予科練に入隊する折に家族揃って(昭和19年7月)
昭和十五年十一月五日、私達一家にとって忘れられない大きな出来事がありました。それは、火災で住宅も納屋も一瞬にして全焼してしまった事です。農家にとって一年間汗して働き収穫した燕麦や、それに除虫菊を袋詰めにして山程積んであったのが、この火事で総べて焼失してしまいました。
冬を目前にして焼け出され途方にくれていた私達一家に対し、部落の方々や町内の多くの皆様より心温まる数々の品々、激励の言葉を頂き、また村上国二さんは自分の山の木を切って材料を提供して下さいました。組内の皆様の手伝いを頂き仮住居が建築され、私達家族九人は取り敢えず此処で冬を過ごす事が出来ました。今思い起こしても、この時程、人々のなさけ、親切が身にしみて有難いと思った事はありません。
孤独との闘[たたか]い
昭和二十七年に住宅を新築し、翌二十八年長男が結婚して、さあこれからと言う時、この年の八月に突然、夫が心臓弁膜症を患い四十六歳という若さで此の世を去ってしまいました。下の子はまだ小学校一年生でした。
それからは淋しさに耐えながらも、長男夫婦を中心にした農業に取り組んでいましたが、昭和四十三年、五十八歳の時、狭心症で倒れ町立病院に入院となり、その後二十年と言う長い入院生活が続きました。此の間、部落の多くの皆様方や親戚、兄弟の温かい励ましの言葉を心の支えとして頑張る事ができました。
昭和六十三年に白内障になり目が見えなくなってしまい、手術のため旭川医大に入院しましたが、また心臓発作が起き、第一内科で診察を受けながら、どうにか手術を行う事ができました。その後カルテを町立病院に回して頂き薬を服用していますが、十年経った今日まで殆ど発作も起きず、本当に快[よ]くなったと心から喜んでおります。
私が入院していた二十年間、長男夫婦が農業を続けながら、親代わりとして下の弟や妹達を結婚させてもらい、本当に苦労をかけたと思っています。
掲載省略:写真〜バチぞりで嫁ぐ次女直子さん(昭和31年頃)
今の楽しみは週一回のデイサービスです。保健婦さんの身体検査を受けてからゆっくり入浴し、昼食後は皆さんとゲーム等をして、本当に楽しい一日です。
また名古屋にいる息子の所や娘の所にも行って来ました。お伊勢詣りを始め名古屋城や、いくつもの名所を見せて頂き、健康の有難さをしみじみ感じているところです。
今では息子夫婦、孫夫婦、會孫(女二人、男二人)達に囲まれて元気に暮せる幸せを心から感謝すると共に、もう八十八歳、これからはボケないように健康に留意しながら、残された人生を静かに生きて行きたいと思っています。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子