第一章 開拓編 女性のくらし
江 花
江花[えはな]地域は西は美瑛町、南は中富良野町、北は江幌地域、東は島津地域に囲まれていて、面積約一〇八五f(平成六年現在)平成九年四月現在、四二戸、一九六人の区域である。
地域中央を流れるエバナマエホロカンベツ川は、アイヌ語のエパナ・オマイ・ホロカン・ペツが語源で「川下にある所のホロカンベツ川」と言う意味である。「エパナ」が「エバナ」に変化して漢字の「江花」を当て「えはな」と読む地名になった。地域には、留辺蘂上富良野線、中富良野上富良野線、奈江富良野線の道々三線が走っている。この外に西三線、北二三号と山花道路を結ぶ線があるが、丘と山、畑と森林、沢と人家の織りなす独特の景観の中にある地域である。
開拓初期にはエバナマエホロカンベツ川の川筋をたどり、現在の島津一西方面から入地した様であるが、地形的条件が悪く、開拓時期が他より遅れた。資本家系列の農場や牧場等よりも、一族による個人や団体への貸し下げによる開拓が主流になった地域である。江花の入地は比較的早く、明治三三年にエバナマエホロカンベツに高田太八郎、須藤いの、東幸三郎が未開地貸し付けの申請をしている。
明治三五年には、滋賀県出身の村木久兵衛が、エバナマエホロカンベツ川筋に五六町歩の貸し付けを受けて、三六年から開墾に着手した。現地管理者は息子の久次郎であった。明治四〇年に山形団体(村山団体と置玉団体を合わせた総称)が入地。また高階[たかしな]を団体長に秋田県からの入植団体があったが、戸数や出身地は定かでなく、豆景気後に借金を抱えて離散するなどで団体は消滅している。この年に大野嘉一を団体長に土佐団体二〇戸も入地したが、早期に転地が相次ぎ残ったのは一〇戸程度と記録されている。
明治四一年には、新潟県から越後団体が入地しているが、閉鎖的な団体であった為団体長の名も残っておらず、三年後には全戸が引き揚げ離散したと言われる。四五年に霜取四郎が貸し下げを受け、山形団体の大場金五郎が牧場管理を引き受けて、大正五年に付与検査に合格したが、間もなく区画をし、小作入地者等に売り渡されたので牧場は消滅した。単独入地者として、石川庄蔵、小木力蔵、新屋弥十郎、大場金五郎、四釜辰蔵、芳賀仲次、岩月三吉、渡辺庄郎がいる。
大正に入り開墾も成果を挙げ始めた矢先に、第一次世界大戦による穀物高騰で豆景気が始まり、多くの者は借金をして山林を切り開き、一気に開墾が進む結果となったが、この後に続く価格暴落と元々地味が低く水利が悪い土地での略奪的な耕作による減収が追い討ちをかけ、離農者が続発した。好景気時には、ストーブの焚付けに紙幣を使ったと言う逸話も残されている。
江花の代表的人物としては、村上国二、芳賀吉太郎、藤田恵、石川庄一、大場清一、西村常一、この西村常一は学校、道路、電気導入等に対して江花に残した功績は高い評価をされて来た。開拓時代の実力者は山形団体長大場金太郎で美唄にいた時以来道庁との折衝にあたっていた為、農地の附与検査等の事や、新たに土地の貸し下げを申請する時には、いなくてはならない存在であった。江花小学校の開校以前にすでに北原稔と言う先生を頼み授業をしたとも伝えられ、学校敷地においても惜しみない努力をした事は有名である。
昭和五九年九月、江花開拓八〇周年に当り、記念祝賀会、行事を催すと共に「江花開基八〇年記念誌」を発刊している。
現在の江花地域は、道々留辺蘂上富良野線を幹線として市街地と結ばれており、その頂点にあたる千望峠は、眼下に丘陵地帯が広がり、上富良野市街地、十勝岳連峰が一望され、その大パノラマは正に絶景である。近年は観光スポットとして人気も高く、ドライブコースとなっている。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子