第一章 開拓編 女性のくらし
私の戦中戦後
益山 トシ子さん 七十三歳(静修)
秋田から静修へ
大正十一年、秋田県平鹿郡川西村に六人姉妹の三女として生まれ、小学校卒業後、紡績工場に勤めたが、戦争が激しくなって来たので家に戻り習い事をしていた。
二十歳になった或る日裁縫から帰ると、来客があったらしく立派なお膳が出ており、父は「お前をくれる事にした。北海道にやる!!」と言うのだった。
相手は十九歳、農家の息子で「北海道の農家の女は、畑に出る時は着物の下からお腰を出して顔は隠している。草取りは長い柄の付いた鍬で立ってしている。変な格好して働かないからいい」と勧めるのであった。
父は杣夫[やまご]で年中人を連れて、あちこちの山を渡り歩いており、北見に叔母(父の妹)がいたので北海道の事は良く知っていて「北見は寒くてあまり作物は取れないが富良野は気候が良く何んでも取れる。これからは自分で作らなければ食べて行けない時代だから百姓が一番いいと思う」と言っていた。
結納金二百円と五十円の桐箪笥、十二円の鏡台を貰い、結納金は、嫁入り布団を買い立ち振舞をして残りは旅費になったが、百円が相場の時代で当時としては可成り奮発した額であり、その上仕事が出来ないので、舅には何かにつけて「高い嫁だ」 と言われた。見合い写真もなく口約束だけでは心配で父が付いて来たが、青森に出て一泊し、乗物酔いで食事もとれずに三日がかりで上富良野に着いた。父は「逃げ帰る時に雨が降ったら困るから」と青森で、こうもり傘と蛇の目傘を買って呉れた。昭和十七年四月下旬の事である。
上富良野の駅には義兄が馬車で迎えに来ていた。筵[むしろ]一枚の上に、嫁だからと緊張して正座していたが行けども行けども家は無く、若し変な所であったら逃げ帰ろうと思ったが、何處[どこ]をどう来たのかも分らず帰るどころではなかった。花嫁の仕度もせず義弟と二組一緒の結婚式を挙げ、及川写真屋さんが自転車で来てくれて、記念写真だけは撮って貰った。
掲載省略:写真〜結婚して初めてのお祭りに夫福治さんと(昭和17年8月)
父は「見たとこ馬鹿ではなさそうだし辛抱して見れや」と言って帰って行ったが矢張り心配だったのか、其の後も樺太に仕事に行く折には必ず寄って「お前を憎くて離した訳ではない」と、その度に言い訳をしていた。翌年長男が生まれた時には三つ重ねの着物を送って呉れた。
結婚生活
両親始め五組の夫婦と子供、十六人の大家族で、私達は倉庫の二階に作った六畳間で寝[やす]み、食事は一緒で支度は兄嫁がして呉れたが、朝起きするにも時計も無く、緊張の余り夜半の二時に起き出した事もあり戸惑う事ばかりであったが、年齢の近い姪が居て色々と教えられ助けられた。
働き手は九人で、二十五町歩の畑に燕麦、小麦を主にトウキビや亜麻を作り、除虫菊が最も多かった。三年は農業をさせないと言う約束であったが、嫁に来た次の日から畑に出た。土の塊[かたまり]を鍬で叩いて砕[くだ]く仕事で手が豆だらけになり、地下足袋を作っても下手なので直ぐに破れてしまい、燕麦刈りは一人で三本の畝[うね]を持つが私は一本しか出来ず、その分夫が補って呉れたが、馴れない仕事で辛い思いをした。
夫の入隊・留守をまもって
昭和十九年九月、甲種合格であった夫は旭川第七師団に入隊した。一週間後満州に行く事になり面会の通知が来たが、両親だけが会いに行くのであった。
夫は十月に満州に行き手紙が来たのは三カ月間でその後は音信が途絶え、翌年終戦になったものの捕虜となり、ソ連に抑留され、消息不明になった。
掲載省略:写真〜出征中の夫に送るために、長男裕和さんとトシ子さん(昭和19年11月)
昭和二十年は、物資不足と食糧難に追い打ちをかける大凶作となり、米は一町歩から一俵しかとれず川に水車を作りトウキビを挽[ひ]いてお粥[かゆ]にして食べたり、食用油の代りに温床の障子に塗る亜麻油で天ぷらを揚げた(匂いがきつくて食べられなかった)り家畜用の人参も味噌汁や漬物にし、おやつに生[なま]で食べたりもした。
近くの澱粉工場には、澱粉粕を買いに街から来た人達が行列を作っており、着物などを持って、何でもいいから食糧と交換して欲しいと言って来た。
二十一年三月に義弟が栄養失調で復員して来た時は米も無く、姑は懇意[こんい]にしていた市街の西野目さんから二升の米を貰って来てお粥にして食べさせていた。何もかもが配給で、舅は配給品を総べて公平に分けて呉れたが、少しずつ分けて貰った水飴を、夫が帰ったら食べさせようと貯[た]めて置き、とうとう黴[かび]が生えてしまった事もあった。
夫を待つ
二十一年春頃から外地からの引き揚げが始まり、復員者の姿を見かける度に「夫ではないか」と心躍らせ、毎日、十二線道路の方を見ては待ち侍[わ]びた。日向さんの神さんに占って貰うと「一・二週間で戻って来る」と言われ心待ちにしたが当らず、別の占い師に行くと「早くて三年は帰らない。遠くに行って居る」と言い、これが当たった。
そんな折、実家の祖母が病気になり北見の叔母と秋田に行く事になった。結婚七年目にしての里帰りなので子供の服や帽子を作って用意したが、その日が近付くと舅は「日が悪いと行けない」とか、子供には「汽車に乗ると危ない」などと言い、結局は私だけが行く事になった。舅は、子供を連れて行ったら戻っては来ないと思った様であった。舅は九円のお金を呉れ「余ったらお釣を持って来い」と言うので、少しでも残さなければと気になり実家にいた一と月の間、毎日お金を数えては姉に笑われた。
実家から色々な物を貰い、ひと荷物を背負って帰って来たが、駅から十`の道程が大変で、履物を脱ぎ足袋跣[たぴはだし]で歩いた。「ただいまー」と声をかけても応えて呉れる者もなく、夫のいない淋しさで泣きたい気持ちであった。
夫の復員
夫と一緒に入隊した義弟が復員して二年が経ち、生死が分かれば身の振り方も考えなければ、と覚悟し、夫の親は北見の従兄を婿にと考えた様であった。そんな矢先き、新聞の復員者名簿に夫の名前があると、出先きで教えられた姑が「福治が帰って来る!!」と飛んで戻って来た。この時ばかりは部落中の人が「よかった、よかった」と喜んでくれた。
昭和二十四年十月、夫が帰る日が来て、五歳になった長男と旭川まで迎えに行った。「おれの父ちゃん若いなー」これが長男の第一声であったが、舅夫婦や義兄夫婦の中で育った長男には、物心ついて初めて見る父が若く見えたのであろうか。
引揚船は舞鶴に着くと聞き母子手帳に長男が手紙を書き送っていたので、夫はそれを見て「まだ居たんだなー」と思ったそうであった。
分家・それからの暮らし
一年間お礼奉公をして翌年十一月に分家した。舅手造りの新居は荒壁を塗っただけの粗末な家で、吹
雪が入り寒かった。荒削りの床板を毎晩、親子三人で瓶でこすったが、そんな中で生後二カ月の長女に風邪を引かせ急性肺炎で死なせてしまった。
土地は二町五反ずつの飛び地を一戸分貰い通い作したが、二十六年に二女を産み、授乳に走って家に帰り大急ぎで畑に戻ると、一服は終ってしまい休む暇もなく、水田から跣[はだし]のまま飛んで来て窓から覗くと、箱の中で泣き疲れ死にかかっていた事もあった。二女が一歳になった頃には長男が小学生になっていたので、おやつを与え、おむつを取り替えて良く面倒を見てくれ、二女は長男が育てたも同然であった。本家に九年居たが着物一枚買う事もなく、嫁に来る時に持って来た着物を子供の服に改造し、おむつは継[つ]ぎ接[は]ぎで厚くなったズボンで作ったが、一本から二枚しか取れず洗い替えも無く、その頃、十枚のおむつを持っている人は居なかったと思う。
分家した直後から私は体が弱くなり、秋田から高校を終えたばかりの甥が手伝いに来てくれたが、電気もない、新聞もない、水は近くの湧水を柄杓[ひしゃく]で掬[すく]い馬穴[ばけつ]に汲んで運ばなければならず、何よりも食べ物が粗末で、カボチャを炊いた鍋の蓋を取っては溜息をついていたが、米どころ秋田から来た甥には辛い事であったと思う。「美味[うま]い物」と言えば蕎麦かボタ餅で、客が来ると丸太ん棒の様な蕎麦を打って食べたが、それが何よりのご馳走であった。
時が過ぎて・今
戦中戦後の苦難であった時代は過去のものとなり子供達も成長して平穏な日々に安堵したのか、昭和五十三年に胃潰瘍手術で二カ月間、札幌の病院に入院したが、病気になって初めて、回りを見たり考えたり、人を思いやる気持ちになれて人生が変わった。その後元気になり老人大学に通い友達が出来た事が最高のプラスになった。今は民謡サークルに入り、夫は水墨画にゲートボールと、お互いの趣味を通しての会話が何よりの楽しみである。
農家は嫌だと、ずっと思って来たが、その家業を長男が継いでくれ、改めて見回わす第二のふる里静修は、その名の通り静かで空気が良く、景色も素暗しい所で、今の暮らしが最高だと思っている。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子