第一章 開拓編 女性のくらし
静 修
静修[せいしゅう]は里仁と共に本町の北端である。北二八号から江幌完別川を登り、江幌地区を通って、右寄り北方に向かうと、江幌完別川上流の集水地帯になる。北は里仁、東は草分、南は江幌、西を空知郡と上川郡の郡界でもある美瑛町に囲まれていて、地理的にも歴史的にも、美瑛と深い関係を持っている地域である。地域面積は、平成九年度現在約七〇九〇fで、三〇戸、一一五人となっている。
静修は、明治三九年に設置された部(長)制では第九部、四〇年六月に第一〇部、四一年三月には第一一部、大正二年の再編で一六部に、大正六年の中富良野分村時再編で四部になったが、当時は江幌と静修は一体になっていた。大正七年に小学校通学区域分割がそのまま地域の分離になり、現在の静修と江幌の境界になった。静修の名は当時の村長塙浩気の命名である。この七年当時には静修、江幌地域の基になる農場や団体入植が終わっていて、静修には明治四〇年に宮城県東田郡、志田郡、栗原郡の三郡から佐々木利左エ門を団体長に一八戸が入地した宮城団体と福島県人二〇戸が入地した福島団体、そして大正元年に仙台の七条善吉が三二戸分の貸し下げを受けて開いていたが、これを買い取り大正五年に、春波金太郎を団長とする岡山県英田郡の二八戸が入地した岡山団体が存在した。
七条農場は未付与の土地であったために、各自で成功検査を受けている。この二八戸は明治四五年に留辺蘂[るべしべ]に入地していたが、条件の良い当地へ全戸が転地したものである。
上富良野で最も開拓が遅れた地域だったが、一旦開拓の鍬が入ると一挙に開墾が進んだ。これは三井物産が造材を行っていて、この跡に土地ブローカーの手を経て、開墾地として入地が進んだからである。開かれた頃の土地は地味が豊かであったため、無施肥で収量が上がった。この頃に訪れた豆景気は新開地への人の動きを更に増し、当時は静修(江幌一体)の人口も一挙に増加する事になった。
大正五年に静修の奥に岡山団体が入地すると、江幌小学校までの通学距離が相当なものになる為、七年には江幌尋常小学校の分校として、一学級を分離し静修特別教授場が設置された。通学区は美瑛二股も含んでおり、校舎は西一二線北三一号にあった。しかし、静修地域の喜びも束の間で開校後間もなく訪れた豆不況で生徒数が減少し、昭和に入ると美瑛二股への入地者が増加して二股小学校が新設された。更に生徒数が減少して、昭和四年に教授場が江幌尋常小学校に合併された。元は、一つの地域が江幌と静修に分かれた経過があるが、静修教授場が分かれていた時期を除いて、同一小学校区であるため、婦人会や青年会(団)は地域合同になっている様だ。
進取の実践者として春名金太郎がおり、地域の率先として馬鈴薯、ハッカ、ミブヨモギ、除虫菊、亜麻、朝鮮人参、当帰[とうき]等を試作し、多くの失敗の中から普及作物を見出している。開拓時代の人物として、伏見乙五郎、海老名寅治、千葉輿之助、中期から現代においては多湖房吉、春名金太郎、中沢新松等が静修を代表する人々である。
また静修には終戦後、関東、関西方面の都市部から戦災被災者が新規入植し、昭和二二年には一七戸が開拓農業協同組合を設立し集団営農をしていたが、現在は離農、引き上げで開拓部落は消滅しており、旧静修開拓の農地を本拠にして営農する者によって新たに静修六が構成されている。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子